道化、或いは憂鬱な日々に

蝉の命懸けの叫びが続きそれはムンクも耳を塞ぎたくなる八月の、或いは夏の夏故の夏であり夏なんである。

首許にひやりとした感触が置かれた次の瞬間、ぶつり。突如として世界は消失したのである。

非世界と呼ぶべきものに筆を尽くせば白色。或いは漆黒色、その両方といっても差し支え無い。それが矛盾であることは百も承知であり尚も続けるならば過去であり未来なのであり自分であり他人なのである。意識は無意識で色即是空しかしながら空即是色であるとは言うまでもなく空の色でありながら色の空であるという状態、それが私、という事物のとある一断面を切り出してみれば規定できそうな私の、唐突に置かれた状態なのである。 ポケットモンスター いくよ / くるよ
停止せよ過去即ち未来、未来即ち過去なのだから円環に於いてこれは以前から置かれていた状態でありその断面と同様縮尺の問題でしかない。私、と仮に定められた何かが中洲で鳩を追いかけている状態、それから大量に遺棄された博多料理の上で鳩を追いかけている状態、そしてこの状態で鳩を追いかけている状態。これらの差異は背後関係、もっといえば背景程度の違いしか存在せず、私という何かが鳩を追いかけているという最も大切な本質についてはなんら揺らいではいない。 ポケットモンスター いとし / こいし
唯その状態を私と規定された存在とでも呼ぶべきもの以外の存在、的なめいたそれらしきものを規定してみた時、認識するに至っては、問題っぽいものが表出する可能性がある。私が女子中学生である場合と精神科医である場合と透明人間である場合。そして、追いかけられている鳩が無職好青年である場合と博多料理である場合と概念である場合。更に言えば年齢であるとか生体反応二次元三次元夢想。それら機微に於いて表記揺れが生じた際、他者的な存在風の認識然としたものは相似性を逸脱化するのである。 
有機人形にすらなれない君に名前をつけてあげよう。似たもので代替してあげよう。違うものとの差異から逆算してあげよう。心をあげよう。魂と呼べるようなものをあげよう。骨をあげよう。肉体をあげよう。人間と呼べるような代物をあげよう。そして天使をあげよう。たとえばそう、小説の途中ですがこの続きは、BOOTHで予約販売中の道化、或いは憂鬱な日々にて掲載中(大嘘)

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正義と嘲笑

「深いですね」や「刺さりました」や「共感しました」という言葉で溢れている。

はっきり言うともう飽き飽きである。私は私の言葉であってあなたの言葉ではないのだ。私は誰かのアンセムでもなければスポークスマンでもない。私は私でしかなくあなたはあなたでしかない。共感して安心してる場合ではないのだ。共感は思考停止であり言語化力の衰退に他ならない。20代半ばのケツの青いガキの言葉にキャッキャうふふジーザスオゥイェアなどと言ってる場合ではないのだ。

「その言葉刺さりました」と言われることがよくある。

私はその「刺さる」という表現が適した言葉に出会ったことがない。映画でも小説でも、世の中の「言葉」とやらに「刺された」事がない。それは私が刺す側の人間なのかもしれないが。

「刺される」代わりに「フィットする」言葉に出会ったことは幾度となくある。

そう、「フィット」という言葉が何よりも適している。

ひとは生きていると自然とこころが歪む。穴があく。削れる。その欠損部分に言葉が「フィット」するのだ。

彼ら或いは彼女たちはそのフィット感に対して「刺さった」という言葉を用いているのではないだろうか。多分そこに私と彼ら彼女らに差異はあまりないのだろう。知らんけど。

マイノリティーの共感は弱者にとって凶器である。

共感は正義であり勝者であり非共感者は弱者であり排除される存在でしかない。

共感することによって傷付く人間は必ずいる。

幸福論や綺麗事の裏で傷付く人間は必ずいる。

そういうひとの気持ちを忘れてはならないと思う。

私はこれからも言葉でどこかの誰かを傷付け続けるだろう。

言葉で誰かを傷付けていいのは、その言葉で傷付けられる覚悟がある人間だけだ。

 

 

 

優しさの半分は告訴

痛みはかたちを変える。生きていれば変わる。痛みは痛みによって更新されてゆく。未来に痛みはないが未来の痛みを想像する事は出来る。過去の痛みが更に肥大し心を侵食することもある。感性は嘘を吐いても痛みは嘘を吐かない。繁華街にぽつねんと輝く猥雑な看板に自分の痛みを重ねてしまう。

即ち私、偏頭痛。

それだけで私は友人を幾度となく失ってきたし、二十数年間、今尚それは新鮮な苦痛を帯びてやってくる周期的請求である。人間たいていのことには慣れてしまうものだが、こればかりは抗いようがない。正確に請求される苦痛は私をなすすべもなく不快にする。

積みたててきたものが無為に終わるそのことか、はたまた剥落してゆく脳の神経細胞のサイクルによる物理的な要因か、月を経ることで年をも経ている平素忘却している生存矛盾ゆえか。とにかく私は哲学的なまでに苦痛を訴え、私は私を辟易させるわけである。

そのため私はイブプロフェンを崇拝している。物理的な痛みが伴わぬだけでも生活はすこしだけ彩りを帯びてくる。半分がやさしさで形づくられているような、か弱いものでは私を救えぬのである。

なにはなくともイブプロフェン。なにはなくとも、イブプロフェン。オーイェア、ジーザスイブプロフェン

 

「では残りの半分はなんなのですか」

 

「辛辣ですね。主に、あとは広告料」

 

「どこが辛辣なのです?私にとっては充分やさしい」

 

「やさしさには苦痛も含有されていますから」

 

「ではあなたのやさしさとはなんですか」

 

「ひとのやさしさを想像することです」

 

なるほど。合点合点。私が電話ボックスから出るとき、ひとりの天使が空から堕ちてくるのが見えた。

 

 

ほんとだもん!ほんとにトートロジーだもん!!うそじゃないもん!!

今日のアンパンマンは神回だった。欲情したホラーマンがあかちゃんまんの口にピストルのマズルを突っ込み脳幹を撃ち抜くシーンにはお茶の間も震え上がった事だろうなどとコーラで満たされたバスタブに浸かりながらふと思うのであった。この風呂は後でメントスを入れて全てを終わらせるつもりである。風呂を出る。爪の先に灯る火があり、寝台があって、水差しとグラスがしつえられてあり、風はなく、橋梁があって、川の流れは堰き止められている。外には大量のタイ料理が廃棄されている。
「私に、非はない」
パクチーばかりではない。

レモングラスも、ナンプラーもがない交ぜになりハーモニーとなってあり。大量に遺棄されたタイ料理。寝台があり、風はなく、爪の先に灯る火だけがあって河川敷。
「なれば私は、何故このような場所で朽ちてゆかねばならぬのか」


ところで私を産み落とした母親にその責任はあるだろうか?

つまり私のような存在を生み出したこの社会に責任はあるだろうか?

故に全部貧乏が悪いのか?

花は?

鳥は鳴いていたか?

不条理とは?

とすれば条理は何処にあるだろう?

一度でも誰かその眼に映じてみたことがあったろうか?

蝟集したタイ米の上をふかふかと歩きゆく。

私には足がある。
かつてはこの川にも葦があった。
「あし」 は「悪」に繋がるというから「よし」と呼んだ。 
真実を置き去りとし、歴史は容易く、書き換えられゆく。 
花は咲きほこり。

鳥は鳴いていた。

そこに私はいなかった。
「私には、流すべき涙がない」 


それは流されるべき涙の与り知らぬ処である。

 

 

13歳

誰かが信じてくれているのかもしれないと思うとぶち壊してしまいたくなるのが人情である。そんなわけでさっそくぶち壊してしまうが、わたしが可憐な十三歳のレスビアンなどとは誰も想像していなかっただろう。それにしても貴重種であり自画自賛の尽きぬこの一年限りの称号をどう痛めつけてやろうかと考えている。天使の真似事をする女学生に八つ当たりめいた押し掛け女房を突きつけるということもあり得るし、度を越して仲の良い肉体関係を秘めた男女の仲を引き裂きつつ十三歳のレスビアンをひとり増やしてしまうということもあり得る。いやしかしもっと愉しいこともあり得るだろう。たとえば__などと卑しき物思いに耽る可憐なこのわたしに天罰のプレゼントが与えられた。わたしの愛らしいうるうるのくちびるが襲われたのだ。悲鳴を上げずにいたのはまだこの身体の感覚に精通していなかったためである。わたしは可憐きわまるあどけなき少女にとり憑いた悪戯好きの天使なのである。
 
━━物語の全てはくちびるからはじまる。

 

これは紀元前から伝わる格言である。というのは、わたしが今勝手に決めたのだがそれはそれとして、これはどうも事実のようだ。わたしのうるうるを奪い去った悪魔、つまり天罰を執行した彼は実のところ次の瞬間に白馬に乗ってわたしの心を貫いてしまった。いけない。これは、これだけはいけない。瓦解してしまう。死んでまで叶えようとしたレスビアニスムの秘儀が瓦解するじゃないの。とはいえすでにクライマックスが胸の奥から緊急信号を送ってきている。

 

月夜

紅色の雲は夜になり銀糸の帳へと変貌した。

傘は持っていなかった。

頬を濡らす雫は冷たく、しかし随分優しい雨だと思った。

手放した慕情が夜風に舞い月へと向かう。

一筋の柔らかな光となれ。

叶わなかった恋も失った恋も、光となり愛しい人を照らしてくれ。

見えない月を仰ぎながら、願った。