優しさの半分は告訴

痛みはかたちを変える。生きていれば変わる。痛みは痛みによって更新されてゆく。未来に痛みはないが未来の痛みを想像する事は出来る。過去の痛みが更に肥大し心を侵食することもある。感性は嘘を吐いても痛みは嘘を吐かない。繁華街にぽつねんと輝く猥雑な看板に自分の痛みを重ねてしまう。

即ち私、偏頭痛。

それだけで私は友人を幾度となく失ってきたし、二十数年間、今尚それは新鮮な苦痛を帯びてやってくる周期的請求である。人間たいていのことには慣れてしまうものだが、こればかりは抗いようがない。正確に請求される苦痛は私をなすすべもなく不快にする。

積みたててきたものが無為に終わるそのことか、はたまた剥落してゆく脳の神経細胞のサイクルによる物理的な要因か、月を経ることで年をも経ている平素忘却している生存矛盾ゆえか。とにかく私は哲学的なまでに苦痛を訴え、私は私を辟易させるわけである。

そのため私はイブプロフェンを崇拝している。物理的な痛みが伴わぬだけでも生活はすこしだけ彩りを帯びてくる。半分がやさしさで形づくられているような、か弱いものでは私を救えぬのである。

なにはなくともイブプロフェン。なにはなくとも、イブプロフェン。オーイェア、ジーザスイブプロフェン

 

「では残りの半分はなんなのですか」

 

「辛辣ですね。主に、あとは広告料」

 

「どこが辛辣なのです?私にとっては充分やさしい」

 

「やさしさには苦痛も含有されていますから」

 

「ではあなたのやさしさとはなんですか」

 

「ひとのやさしさを想像することです」

 

なるほど。合点合点。私が電話ボックスから出るとき、ひとりの天使が空から堕ちてくるのが見えた。