正義と嘲笑
「深いですね」や「刺さりました」や「共感しました」という言葉で溢れている。
はっきり言うともう飽き飽きである。私は私の言葉であってあなたの言葉ではないのだ。私は誰かのアンセムでもなければスポークスマンでもない。私は私でしかなくあなたはあなたでしかない。共感して安心してる場合ではないのだ。共感は思考停止であり言語化力の衰退に他ならない。20代半ばのケツの青いガキの言葉にキャッキャうふふジーザスオゥイェアなどと言ってる場合ではないのだ。
「その言葉刺さりました」と言われることがよくある。
私はその「刺さる」という表現が適した言葉に出会ったことがない。映画でも小説でも、世の中の「言葉」とやらに「刺された」事がない。それは私が刺す側の人間なのかもしれないが。
「刺される」代わりに「フィットする」言葉に出会ったことは幾度となくある。
そう、「フィット」という言葉が何よりも適している。
ひとは生きていると自然とこころが歪む。穴があく。削れる。その欠損部分に言葉が「フィット」するのだ。
彼ら或いは彼女たちはそのフィット感に対して「刺さった」という言葉を用いているのではないだろうか。多分そこに私と彼ら彼女らに差異はあまりないのだろう。知らんけど。
マイノリティーの共感は弱者にとって凶器である。
共感は正義であり勝者であり非共感者は弱者であり排除される存在でしかない。
共感することによって傷付く人間は必ずいる。
幸福論や綺麗事の裏で傷付く人間は必ずいる。
そういうひとの気持ちを忘れてはならないと思う。
私はこれからも言葉でどこかの誰かを傷付け続けるだろう。
言葉で誰かを傷付けていいのは、その言葉で傷付けられる覚悟がある人間だけだ。