2020/05/08

晴れ。
夏は忍び足で近づくなんて書きたかったが、昼休みに建物の外に出ると太陽のまぶしさが目の奥を叩く感じで、おもわず足を止めてへたりこんでしまった。もう時期、夏はフルスイングでやってくる。

二年くらい同じ場所に止まりっぱなしのママチャリがあることに最近気がついた。そういえば順調に滅びていっている気がする。誰も乗ることのなくなったチャイルドシート。子どもが子どもでなくなるうちに、紫外線に焼かれていく。

ひたすら水を飲む。水になりたい。

喫茶店の孤独

茶店は孤独の塊である

食事時になると残るのは孤独な者だけだ

本を読むもの

勉学に勤しむもの

パソコンのキーボードを叩くもの

虚空を眺めるもの

その中で限られたものだけが何もしないという美徳を得ることができる

何もしないものは実に高貴だ

限られた時間という資本をただ無に向かって消費する

これが高貴でなくてなんだろうか

 

夢の噺。太宰治に会ったんです。

大きな屋敷の、長い廊下に、私はぽつんと立っていた。向かいから歩いてくる人が居る。江戸川乱歩だった。

乱歩先生は私に手招きをして、

「お兄さん。此方へ。」

と言った。言われるままに私は先生の後をついて行った。廊下の突き当たりに扉があり、屋敷の地下へ続く階段が伸びていた。降りると、障子戸があった。

「ここから先はおひとりで」と乱歩先生は言う。お辞儀をして別れる。

障子戸を開くと、そこは和室で、太宰治が畳に座っていた。

少しお喋りをした。深く内容は覚えていない。

先生が愛喫されていたタバコ、ゴールデンバットはなくなりました。

玉川上水は今入水出来るほど深くはありません、浅い川になっています。

などと伝えた。

話を終え、和室を出るとそこには海が広がっていた。砂浜に、2人で足をおろし歩き始めた。

空を見ると昼なのにも関わらず月が輝いていた。

私は聞いた。

「先生、あの月は何色に見えますか?」

先生は言う

「死んだ桃の花の色だ」

先生は聞く

「君の目には、どうみえるかね」

私は言う

「道化の涙のように見えます」

 

先生はチラと私を見ながら

「冗談言っちゃいけない」

と微笑しながら言うのであった。

握手をし、別れた。先生の手は大きくて温かった。

とても優しい人でした。

 

 

 

 

 

【散文詩】有無

茶店に入ったんです。店の奥の席に2人向かいあって座ったんです。メニュー表が有りまして、そこになんやかんや書かれとんのですわ。店員に注文をお願いしました。私はコーヒーとプリンを、あなたはアルコールとアヒージョを。暫くして注文の品々がやって参りました。あなたはアヒージョを食べとります、浅い小さな鍋の中で色々放り込んだ食べ物。アヒージョやてアヒージョ。ようわからん食べもんやでな。私もプリンを食べるんですわな。プリンやてプリン。アヒージョもプリンもわけわからん食べ物やなぁと思います。アヒージョとプリン、2つ並べてアヒージョもプリンも見たことも聞いたこともない人に差し出して「どちらがプリンで、どちらがアヒージョでしょうか?」と質問して答える事が出来る人がいるだろうか。どちらにも名前がございます。アヒージョという名前が有ります。プリンという名前があります。世の中のものには全て名前がございます。名前が無い事は意味を持たないという事と等しいのです。ところで私たち2人は『恋人』という名前の関係でございます。というかプリンに添えられたシフォンケーキが多いことよ。これじゃどっちが本命かわからんでな。プリンよりもシフォンケーキが多いんだもの。然しプリンの食べ方はよくわからん。噛むのか、飲むのか、舐めるのか。食べ方に答えなんか有るんか?
あなたはアヒージョとやらを食べて美味しいって笑いました。私もプリンを食べて美味しいと笑いました。そこに笑顔が有りました。笑顔って、笑顔やね。そう笑顔。笑った顔でございます。笑顔には起源が有ります。その起源を辿ると笑顔はどうやら威嚇行為らしいんよね。口角を上げて歯を露出させる一連の行為、笑顔。それが威嚇やてさ。怖いもんやで。この店の中にはそれぞれの笑顔がございます。このお客さんの中に笑顔の起源を知ってる人は何人おるんやろね。威嚇の行為って知ってて、笑ってるんかね。あなたは笑っております。私も笑っております。それは威嚇で有るのか?威嚇で無いのか?笑顔が無くなった世界で人はどうこの感情を表現するんだろうかいね。摩訶不思議である。
私はコーヒーに砂糖を入れます。砂糖の入った瓶。砂糖をサーッと入れるんすわ。砂糖が整列して瓶の小さな穴からびゃーっと、1粒1粒が綺麗にコーヒーの中に入っていきます。コーヒーの中に砂糖が有ります。ティースプーンで私はコーヒーを混ぜます。次第に砂糖はコーヒーの中で溶けて無くなります。それを私は飲みました。甘いです。砂糖が苦かったら、そりゃ困ります。世界が爆発します。深刻な問題です。
小休止。
煙草が有ります。ライターが有ります。二人は煙草に火をつけてました。沈黙が有りました。黙り、が有りました。あなたは虚空を眺めとります。右上辺りですね。そこに何がありますか?なぁなぁ、そこに何があるんか教えて下さいよ。文字でも探してますか?言葉でも探してますか?音でも探してますか?煙草の煙の行方はどこでございますか?私の視線も虚空でございます。私は特に何も探してはございません。虚空の中にあなたが有ります。沈黙有り、虚空有り、そこにあなたが有ります。私はそれを眺めております。そこに私の幸せが有ります。私は自分の視線を手元に向けますと人差し指に指輪が有ります。私はそれを弄ります。クルクル回しとります。シルバー925、純銀の指輪でございます。銀の融点は約900度でございます。私たち2人の融点は何度でございましょうか。あなたの融点は?私の融点は?沈黙の融点は?言葉の融点は?笑顔の融点は?心の融点は?そこに融点は有りますか?愛に融点は有りますか?有ったら便利でしょうか?不便でしょうか?あなたが溶けて無くなったら、困ります。あなたが無いのは、困ります。無くなったら痛いです。痛みが有ります。その痛みが、ふいに紙で指を切った時の瞬間的な痛みなのか、煙草で火傷した時の鈍い痛みなのか、それは今は考えない事にします。痛みは無いです。有りません。痛みが有るのなら私は咽頭が叫びを上げ半狂乱、卒倒してしまうでしょう。
目の前にあなたが有ります。あなたの世界が有ります。あなたの前に私が有ります。私にも世界が有ります。
さて、そこに名前は有りますか?

そろそろお店を出ましょうね。

 

 

『お勧めの本は何ですか?』という質問に対し、

私は読書をある程度嗜んでいる。矛盾点ではあるが本を読むことは実を言うとあまり好きではない。私の読書は現実からの逃避行動的要素が大半なのではっきり言ってしまえば読んでいるようで読んでいないのだ。(内容はしっかり頭には入っているのだが)

そんな人間に降りかかる問題が以下である。

本を読む人間として避けられぬ課題である。そう、よく、質問されるのである。

『お勧めの本は何ですか?』と。

私はこの質問と何度も遭遇してきた。そして何度も頭を抱え眉間にシワを寄せ狼狽してきた。(これからも質問は何度もあるであろう)

質問者には申し訳ないが私みたいな小難しい人間にこの手の質問を投げかけるとは何事か!と常々思う。

この手の質問をする人は大抵、"日頃からあまり本を読まない人"がよくするものである。

逆にこの質問が持つ残酷性、難解性を理解しているから本を読む人間は他人に『お勧めの本は何ですか?』などと聞いたりしないだろう。

以前の私ならお勧めの本は何ですか?の問に対しアレやコレやと丁寧に解答(適当に)していたが最近ではもう面倒というか、この質問に解答する責任が自分には専ら存在していないのだと感じている。というのも、この『お勧めの本は何ですか?』に対する解答をするのだとしたら、私の返事は以下の2つのみである。

 

「"本"というのは人から勧められて読むものではありません、なのでお勧めの本などありません」

「愚問!読みてぇ本ぐらい本屋に足運んで自分で見つけろやアホんだら!」

この二択のみである。

 

大前提として、そもそも人には好みがある。別に本に限った話ではない。食べ物の好み、音楽の好み、その他諸々。

極端ではあるが分りやすい例を音楽で例えてみよう。

ベートーヴェンモーツァルトなど「私のお耳はクラシックがお好きなのよ、オホホ」という高尚な鼓膜の持ち主にベースの重低音ゴリゴリのヘビーメタルを勧めたところで聴くわけがないのである(逆も然り)。

演歌が好きな御仁にハードコアパンクを勧めたところで聴かないのである(逆も然り)。

 

小説、文学においてもそうである。

角田光代川上未映子といった恋愛小説が好きな人間に夢野久作の奇書ドグラマグラを勧めたところで目がバグるだけである。

太宰治三島由紀夫川端康成を愛読する純文学家に野菜でマスターベーションをするOLの日々を描いた官能小説を勧めたところで発狂するだけである。

そもそも文学には『純文学』『大衆文学(娯楽文学)』がある。さらに細かにフォーカスを当てると自己啓発本、エッセイ、詩、短歌、川柳など、カテゴリーが山ほどある。

と、言ったところで改めておこう。

『お勧めの本は何ですか?』という質問。

これは残酷性、難解性が非常に高い、そして繊細でデリケートなのである。

私が他人に何かモノを勧める際に最も気を付けていることは、紹介したものに対する感想を絶対に求めないということである。それを読まなければいけない、観なければいけない、聴かなければいけないという義務感を相手に感じさせてしまった時点で、その人の受容を歪めてしまうからである。

故に人に"本をお勧めすること"を私は苦手としている。

私自身は他人からのお勧めの小説や音楽を教えてもらうことは新鮮な刺激を与えてくれるので非常に好きである。しかしその逆は極端に苦手、いや、もはや嫌悪と言っていいほどダメなんである。

 

他人に本や音楽を勧めるのをやめろ!と言いたい訳では無い。勧めたい人は勧めればいい、受け取りたい人は素直に受け止めればいい。各々自己完結させればよい。それだけなのだ。

 

本というのは人から勧められて読むものでは無い。本屋に足を運んで自ら選んだ本こそお勧めの本なのである。本が君を呼んでいるのである。これは比喩ではない。事実である。本が自然と君を呼び寄せるのである。

 

ただ、私のようにこの『お勧め問題』に頭を抱えてしまう人間も居るのだということを頭の片隅に置いておいて欲しいという切実な願いを書き残しておく。

 

以上。

月。

「月が綺麗ですね」

 

「…そうなんですか」

 

「ええ、それに虫が鳴いています」

 

「そうですね、なんの虫でしょうか」

 

「いい風が吹いていますね」

 

「ええ、春の香りがします」

 

「…ではそろそろ帰りましょうか」

 

「はい、では帰り道もお願いします」

 

「……月が綺麗ですね」

 

「……きっとそうなのでしょうね」