羅生門

先日、ある嘘をついたんです。

行きつけの喫茶店でよく会う顔馴染みのお爺さんが居るんです。
その人とたまに会話をすることがあるんですよ。
これといって内容がある理由でもない日常会話なのだけれどね。
『寒いですね。そう言えば、お兄さん選挙には行きました?』とお爺さんに質問されたんです。
私は『行きましたよ。』と答えました。

これです。
嘘をつきました。

私は選挙、つまり投票には行ってないんです。
大した嘘ではないだろう、と思うでしょう。

些細な嘘です。

が、

私は嘘が苦手なんです。
どんな嘘であろうと許せないんです。
嘘をつくのも、つかれるのも。
こうして、嘘を日記に書いてしまうくらいに嫌いなんです。
なるべく、というか、嘘はつきたくないんです。

じゃあ私はなぜ『選挙に行った』と嘘をついたのか。
素直に『行ってないです』と言えば良かったのに、必要の無い嘘をついてしまった。

『私はなぜあの時嘘をついたのか』というより『私はどんな時に嘘を付いてしまうことがあるのか』という事にあのお爺さんに嘘をついてから暫く考えていたんです。

結論を言えば『私の人生に関わりがない人』に対して私は嘘をついてしまう気がします。

喫茶店のお爺さんは私の人生には関係ない人、と瞬間的に判断し嘘をついてしまった、という事だと思います。

勿論、友達、今後友達関係になるである人達、恋人などには嘘をついていません。ついていないと思います。
まぁ相手が『嘘だ』と言えば嘘になってしまうんですけどね。

嘘にも色んな種類があり、嘘の濃度、規模、許容範囲、人それぞれだと思います。

世間に蔓延る嘘、
例えば
人に自分の誠実さを信じて欲しい為につく嘘
プライドの高い女の人が自分の自尊心を侵されない為につく嘘
見栄を張りたい男が自分の武勇伝をファンタジーを交えつつ話す嘘
話を円滑に進める為の嘘
中高生カップルが口癖の様に囁き合うずっと一緒に居ようねなどと言う甘酸っぱい嘘
好きでもない恋人に好きだよと言う嘘
などなど…

ちなみに私が1番嫌いな嘘は
『優しい嘘』
とやらです。
(恋愛脳の人達が酔いしれる優しい嘘。
クソくらえ、殺すぞ、死ね。何が優しい嘘だ。
くらいに思っています。)

嘘の例を上げてみたらどれもくだらないものばかりな気がしますね。
私が喫茶店のお爺さんについた嘘は『話を円滑に進めるための嘘』の部類だと思います。


日記タイトルの『羅生門
なぜ、羅生門にしたのか

羅生門芥川龍之介の代名詞的作品ですね。
職を失い途方に暮れる下人が羅生門にて悪に目覚める話ですね(割愛しまくりですが。)

羅生門は人のエゴイズム、必要悪について説いた作品です。

生きる上で必要悪が必要であるように『必要嘘』というのがあってもいいのでは無いかと思います。

ドストエフスキーが人生でもっとも難しい事は嘘をつかずに生きる事だと言ったように、必要な時には必要な嘘をついても良いんじゃないだろうか、と思ったりします…

いや、無理だ。

普段から嘘をつかない人間が眉一つ動かさず嘘なんて言えるわけがない。

とにかく、私は嘘が嫌いです。

さっき述べたように嘘に対する意識というのは人それぞれだと思いますし嘘をつくのは自由だと思います。
でも、人を傷つけてしまうような嘘は許されないんじゃないかと、私は思いますね。

だから私は嘘が嫌いなんです。

この世に優しい嘘なんて存在するわけがないんです。