吾輩はメンヘラである。

職場に当たり前のように来るのである。なにが?そう、『彼』が。
彼というのは野良猫。
彼を知ったのは、というか、意識をし始めたのはここ数ヶ月の事である。
仕事を始めた初期から職場の敷地内に猫が住み着いているのは知っていた。しかし触れる様な距離で彼を見ることは無かった。
そんなある日の朝彼は突然やってきた。職場の玄関で寝ていたのである。もちろん初めて見た時は「嘘だろ」 と思った。
嘘だろ、と思ったがそれもおかしな事なんじゃないかと言う気もした。何故かというと職場は基本的に朝7時から玄関が常に開きっぱなしなので誰でも出入り出来る環境に常にあったのだ。なので、寧ろ今まで彼、または別の野良ちゃんが入って来てもおかしくは無かったのだ。
彼はその日から当たり前のように職場の玄関に来るようになった。ほぼ毎日玄関で寝ているのだ。寝て、起きて、どこかにふらっと消えていく彼だったのだ。

しかし彼にも、彼にもというか、猫にも『慣れ』というのがある事が判明した。いや、慣れを与えてしまった人間が居るのだ。

見知らぬうちに彼は昼の12時頃になると玄関の定位置にどこからともなく現れ、甘えるように鳴くようになった。(必ず12時頃にやって来るのである。猫の体内時計の正確さに感心する)
私はその彼の姿をお昼ご飯を食べながら不思議だな、なんでお昼になると来るのかな、血液型何型かな、ご両親はどこに居るのかな、可愛いな、などと思いながらただ眺めるのであった。

気になる、気になりすぎる。何故彼が昼間に必ずやって来るのかが気になる。私は昼ご飯を早めに食べ終えて彼の観察をしてみることにした。

勿論翌日も彼は来た。来たなお主、今日は君のその猫なで声の原因を探ってやるからな、待ってろ、今お昼ご飯を食べ終えてやるからな。
お昼ご飯を終え、自販機で珈琲を買いに行くついでに職場の玄関付近で彼の謎行動を見守ることにした。
鳴いている。まだ鳴いている。おや?と思う。
彼の隣には部長が居た。マジか、あんたか、と思った。部長は彼に餌付けをしていたのである。
そりゃ来るわ、餌求めてくるわ、犯人あんたか、彼の見事な猫なで声はあんたに向けられていたのか、と私は珈琲を飲みつつ白目を向きながら思ったのである。
部長が彼に与えた『慣れ』は非常に罪深い。餌が貰える事を覚えさせた事、そして何より猫好きな私にとって非常に罪深いのである。
彼の慣れはエスカレートにエスカレートを重ねエスカレートしきって、玄関だけに留まらず、遂に職場内をウロチョロするようになり、時には社員の作業机の椅子の上で寝るようになった。
堪らんのである、可愛いのである。
彼の遊び場と化した職場で働く私には非常に辛いものがある。あぁ可愛い、一緒に遊びたい、猫になりたい、部長、お前が彼に与えた慣れの罪は重いぞこの野郎、と猫まっしぐらな気持ちを抑えつつ彼を横目に仕事に取り組む日々。
そんな満ち溢れたフラストレーションを発散出来る瞬間が時々ある。
一日中職場に彼は居るので勿論昼休みも居る。
時々目が合う、可愛いと思う。手招きをする、こっちに向かってくる、可愛い!と思う。そこから始まるじゃれ合いタイム。最高に幸せな時間なのである。殺伐とした職場に訪れた至福のひととき。砂漠の中のオアシス、真冬に咲き誇る向日葵か。そう思える時間なのである。

つい先日、彼は玄関に座り込み天井を眺めていた。彼は私の方を見た、目が合った。そして彼は外へ駆け出して行った。夕方頃だった。ふと、『美しい』と思った。
彼は野良猫なので誰に飼われている訳でもない、手入れされるわけでもないので白い彼の毛は薄汚れている。顔に怪我もしている。でも美しいと思った。
職場の中で遊び回って、外へ出掛けていくのはいつもの事なのだけれど、なぜかその時は彼が美しいと思った。野良猫は飼い猫と根本的に生き方が違う。彼は生きる力に満ち溢れている気がした。時に誰かに媚び、時には誰にも媚びる事もなく自由に生きている、白黒ハッキリした世界で自由に生きる彼は非常にかっこいい。私も彼を見習いたい。かっこよく一人で生きてみたい。そう思った。

そうは言っても所詮は猫なのだ。
どんなに白黒ハッキリしていても手招きをすれば目を輝かせて遊んでくれよと尻尾を振ってやって来るし、頭を撫でてやれば気持ちよさそうな顔をするし、紐をチラつかせれば猫パンチをしてじゃれてくるのだ。可愛くチョロい猫なのだ。

昼休み、いつものように彼とじゃれて居て気が付いた。
彼には名前がない。チョロい彼には名前が無い。
そう思った三秒後に私の中で彼の名前は決まった。
『メンヘラ君』

夏目漱石もびっくりである。

そんな彼は明日も玄関にいる。