吾輩はメンヘラである。

職場に当たり前のように来るのである。なにが?そう、『彼』が。
彼というのは野良猫。
彼を知ったのは、というか、意識をし始めたのはここ数ヶ月の事である。
仕事を始めた初期から職場の敷地内に猫が住み着いているのは知っていた。しかし触れる様な距離で彼を見ることは無かった。
そんなある日の朝彼は突然やってきた。職場の玄関で寝ていたのである。もちろん初めて見た時は「嘘だろ」 と思った。
嘘だろ、と思ったがそれもおかしな事なんじゃないかと言う気もした。何故かというと職場は基本的に朝7時から玄関が常に開きっぱなしなので誰でも出入り出来る環境に常にあったのだ。なので、寧ろ今まで彼、または別の野良ちゃんが入って来てもおかしくは無かったのだ。
彼はその日から当たり前のように職場の玄関に来るようになった。ほぼ毎日玄関で寝ているのだ。寝て、起きて、どこかにふらっと消えていく彼だったのだ。

しかし彼にも、彼にもというか、猫にも『慣れ』というのがある事が判明した。いや、慣れを与えてしまった人間が居るのだ。

見知らぬうちに彼は昼の12時頃になると玄関の定位置にどこからともなく現れ、甘えるように鳴くようになった。(必ず12時頃にやって来るのである。猫の体内時計の正確さに感心する)
私はその彼の姿をお昼ご飯を食べながら不思議だな、なんでお昼になると来るのかな、血液型何型かな、ご両親はどこに居るのかな、可愛いな、などと思いながらただ眺めるのであった。

気になる、気になりすぎる。何故彼が昼間に必ずやって来るのかが気になる。私は昼ご飯を早めに食べ終えて彼の観察をしてみることにした。

勿論翌日も彼は来た。来たなお主、今日は君のその猫なで声の原因を探ってやるからな、待ってろ、今お昼ご飯を食べ終えてやるからな。
お昼ご飯を終え、自販機で珈琲を買いに行くついでに職場の玄関付近で彼の謎行動を見守ることにした。
鳴いている。まだ鳴いている。おや?と思う。
彼の隣には部長が居た。マジか、あんたか、と思った。部長は彼に餌付けをしていたのである。
そりゃ来るわ、餌求めてくるわ、犯人あんたか、彼の見事な猫なで声はあんたに向けられていたのか、と私は珈琲を飲みつつ白目を向きながら思ったのである。
部長が彼に与えた『慣れ』は非常に罪深い。餌が貰える事を覚えさせた事、そして何より猫好きな私にとって非常に罪深いのである。
彼の慣れはエスカレートにエスカレートを重ねエスカレートしきって、玄関だけに留まらず、遂に職場内をウロチョロするようになり、時には社員の作業机の椅子の上で寝るようになった。
堪らんのである、可愛いのである。
彼の遊び場と化した職場で働く私には非常に辛いものがある。あぁ可愛い、一緒に遊びたい、猫になりたい、部長、お前が彼に与えた慣れの罪は重いぞこの野郎、と猫まっしぐらな気持ちを抑えつつ彼を横目に仕事に取り組む日々。
そんな満ち溢れたフラストレーションを発散出来る瞬間が時々ある。
一日中職場に彼は居るので勿論昼休みも居る。
時々目が合う、可愛いと思う。手招きをする、こっちに向かってくる、可愛い!と思う。そこから始まるじゃれ合いタイム。最高に幸せな時間なのである。殺伐とした職場に訪れた至福のひととき。砂漠の中のオアシス、真冬に咲き誇る向日葵か。そう思える時間なのである。

つい先日、彼は玄関に座り込み天井を眺めていた。彼は私の方を見た、目が合った。そして彼は外へ駆け出して行った。夕方頃だった。ふと、『美しい』と思った。
彼は野良猫なので誰に飼われている訳でもない、手入れされるわけでもないので白い彼の毛は薄汚れている。顔に怪我もしている。でも美しいと思った。
職場の中で遊び回って、外へ出掛けていくのはいつもの事なのだけれど、なぜかその時は彼が美しいと思った。野良猫は飼い猫と根本的に生き方が違う。彼は生きる力に満ち溢れている気がした。時に誰かに媚び、時には誰にも媚びる事もなく自由に生きている、白黒ハッキリした世界で自由に生きる彼は非常にかっこいい。私も彼を見習いたい。かっこよく一人で生きてみたい。そう思った。

そうは言っても所詮は猫なのだ。
どんなに白黒ハッキリしていても手招きをすれば目を輝かせて遊んでくれよと尻尾を振ってやって来るし、頭を撫でてやれば気持ちよさそうな顔をするし、紐をチラつかせれば猫パンチをしてじゃれてくるのだ。可愛くチョロい猫なのだ。

昼休み、いつものように彼とじゃれて居て気が付いた。
彼には名前がない。チョロい彼には名前が無い。
そう思った三秒後に私の中で彼の名前は決まった。
『メンヘラ君』

夏目漱石もびっくりである。

そんな彼は明日も玄関にいる。

 

お会計。レジ前、小銭ストレス。

この財布を使いはじめて何年経っただろうか。そしてこの財布に嫌気がさしてどれ程の時間が経過しただろうか。財布を何度買い換えようと思っただろうか。
私の財布は非常に扱いづらい。100人居たら100人が口を揃えて「これは酷い」と言うだろう。それほど機能性が最悪なのである。閉まるところは閉まらず、開くべきところが開いてないのである。カードの類いを収納するポケットはカードとの密着率が異常に高くでレジの店員さんに「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれてからでは遅いくらいに取り出しづらいのである。
そして問題は小銭を収納するスペース。これが厄介であり私のストレスの元凶、悪の権化そのものなのである。
なんと言っても狭い、非常に狭い。小銭入れを開き指をそこに入れる、するとどうだ、狭すぎる、指先さえも窮屈。小銭は取り出せる、しかし取り出せるだけであって『狙った小銭』は取り出せないのである。小銭入れ内でバタつく人差し指と親指、逃げる小銭。もたつく会計。

1円玉を出したいのに50円玉を取り出したり、100円玉を取り出したいのに10円玉を取り出したりは日常茶飯事。私が希望する額の小銭達を私の指はこの狭き小銭収納スペースのおかげでスタイリッシュに取れた試しがないのである。(取り出せるには取り出せるがスタイリッシュではないのだ)
その中でも厄介な小銭は1円玉、5円玉、10円玉たちである。

そこで私が考案したこの問題の打開策。
外出時には事前に小銭をポケットに常に忍ばせるというものだ。
パンツの右ポケットには1円玉数枚、左ポケットには5円玉数枚、胸ポケットには10円玉数枚を入れておく、そして会計の金額がレジの液晶画面に表示された瞬間ポケットをまさぐり、端数額を叩き出すのだ。
これがなかなか使える。非常に便利である。
しかしこの策には欠点がある。
ポケットを全力でまさぐる姿が素晴らしくみっともないのである。

いつもコンビニで買う缶コーヒーは123円。事前に買う物の値段が把握出来ている場合などはコンビニに入る前に財布、ポケットからゆったりと小銭を出してスタイリッシュにお会計を済ませる事が出来るのだが、2品、3品、購入したりする場合は全力でみっともない姿を晒さなければならない。
私はもう、慣れた。慣れてしまったのだ、ポケットをまさぐり尽くすみっともない姿を晒すのには。

しかしこの策は根本的な問題の解決にはなっていない。
私は『レジでどんな額が表示されようとも涼しい顔をしてスタイリッシュにお会計を済ませる事』が目的なわけであってポケットをまさぐることが目的なのではない。
私の目的はスタイリッシュに会計を済ませる。
この一点なのだ。

これをお読みになっている方々は『こいつ何言ってんだかアホか、財布買い換えろや』と御思いだろう。

全く以てその通りなのである。

カードも小銭も取り出しづらい、もはや財布として見ていいのかすらわからない財布を長年使う意味はあるのだろうか?
全くない。
問題の解決策は財布を買い換えればすぐ解決する、解決はしなくとも今よりかは幾分マシになる。
そう、そうなのだ。

この財布は確か1000円くらいで買った記憶がある。購入した時は機能性など全く気にも止めていなかった。後にこれ程までに苦しめられるとは思いもしなかった。
1000円のこの財布が私に与えた小銭ストレスは1000円以上の価値があると私は思う。
蓄積されたストレスはプライスレスである。

何故、私はこの財布にストレスを感じながらも長年使い続けているのか、謎である。
私にもわからない。愛着がある訳では無い。
ならなにか?『情』なのか?
全く謎だ。

いや、原因は私の習性にあるのかもしれない。
私には幼い頃からある特定のものをひたすら使い続ける習性があるのだ。
中学生の頃履いていたズボンを未だに部屋着として着たり、靴は同じものを穴が空くまで履き、穴が空いたらまた同じ靴を買ったり。
歯磨きをする時に使うコップに関しては幼稚園の頃から使っているマグカップをかれこれ20年程使っている(20年使っているが驚くほど綺麗なのだ)。
どれもこれも特に愛着がある訳でも依存しているわけでもない。ピーナッツ(スヌーピー)でお馴染みのキャラクター、ライナスが病的なまでに常に持ち歩いている『安心毛布』と私のこれらの物に対する感覚は全く別なのである。(しかしライナスの毛布に対する気持ちはわかる)
捨てようと思えば捨てることが出来るものだ。
ほんとに、ほんとに愛着は全くない。でも、捨てる事をしない。
謎の習性である。

恐らくそのあたりの習性が財布にも影響してしまっているのかもしれない。

うーむ、どうするべきか。このまま小銭ストレス全身に浴びながら財布と共に生きていくのか、それとも、素直に買い換えてこの支配から卒業するべきか。
そうだねぇ、買い換えましょうかね。
季節も変わりますし、財布も衣替えしましょうかね。
うむ、そうしよう。

その前に衣類の衣替えをしなければ..

私のタンスの中は未だに冬なのである。

過去、現在、未来の三点倒立。

思い出というのは、今という時間があるからこそ出来るわけで今という時間が過ぎてしまえば全ては過去であり思い出なのではないだろうか。
そんなわけで、黄金週間、GWは東京へ旅行へ行ったのです。
旅先で私のお散歩に付き添ってくれる方をTwitterで集め、とりあえずその人たちにその日1日の予定を自由に決めてもらい一緒に過ごしてもらうという自由といえば自由なのだけれど(相手にとって)迷惑といえば迷惑極まりない他人任せ無計画旅行というのは基本スタンスで、今回の東京旅行も例外では無かったわけである。

いやぁ、癒されましたね。女の子ですもの、出逢ってくれた方々は。
普段、人、ましてや女の子に会う機会もなければ会話もない日常の中でぼんやりと過ごしている私にとって女の子と出会うことは癒し&刺激的なんである。
毎度、誘ってくれる方々は優しく、少なからずどこかしら自分に似ていて、なんとなく私を理解してくれている子達で非常に接しやすく落ち着く存在だったりする。
食事したり、喫茶店で向かい合って話したりするだけなのだけれど私にとって素晴らしく楽しい時間であり大切なひと時。有意義な時間だったのです。

笑顔が好きなんですよ、女の子の笑顔。純粋に、単純に、笑顔が好きなんである。

『笑顔』といっても、なんというか、こう、大きな笑顔というのはつまらなくて、小さな笑顔がまた好きで、笑顔の理由が素朴であればある程いいなぁと思うのです。
今回の旅行中にもその笑顔に沢山出会った。
例えば、どこか旅行へと向かう家族。子供は興奮気味に母親の手を引き電車に乗り込む、もちろん子供は笑顔。こちらまでそのウキウキが伝わってくる、それだけで私は泣けてくるのである。

もちろん、出逢ってくれた女の子も小さな笑顔を沢山私に見せてくれた。
学校生活が大変なこと、友達関係が面倒なこと、自分はどんな人なのかということ、さっきまで何をしていたかということ、私に対し思っていること、好きな食べ物のこと、髪色を変えるということ。何気ない会話の中で彼女達が散りばめた小さな笑顔を私は忘れたくない、大切にしたいと思っている。
これから数え切れない程重なり合っていく記憶の中で彼女達があの時あの場所で私と過ごした一時の事を思い出すことはあるのだろうかと、その、小さな笑顔を眺めながらしきりに思うのである。
私が見た彼女の小さな笑顔は紛うことなき『現在』の出来事であるはずなのに、目の前の彼女の光景は同時に彼女達の過去であって、未来の彼女達が思い出すかも知れない記憶に立ち会っているような、そんな感覚が拭えなかったりする。
忘れたくないね彼女達の笑顔。また会いたいですね。
現在と過去と未来は常に同時進行なのかもね。
あぁ、彼女達の笑顔を思い出すだけで胸が熱く痛くなる。だってもう夏だもの。

Before美しい After綺麗

『季節は巡るねぇ』と声に出してしまった四月。
世間は春らしいが私には春らしい春は全くと言っていいほど訪れていないわけで、冬の延長にある春がただ、勝手にやって来ただけで、別れも無ければ出会いもない今を過ごしている。
テレビやラジオから聞こえてくる『新年度』『新社会人』『入学式』などのワードを聞くと、受け入れたくなくても春という季節感を強制的に身体に叩き込まれる訳で…
しかし、私は『まだ冬ですし?マフラーも手袋もしていますし?春?知らんなそんなもん。』と足掻いている最中だったりする。

いや、事実、春はまだやって来てないんですよ、私の街には。
春らしい春を感じられない最大の要因は桜が未だに開花していないからなんですよ。

社会人になってから、見る機会をまるっきり無くした桜の花。
桜の花に対して、というか、それに関わらず世の中のありとあらゆるモノに纏わる感情に付いて頭を抱えている事が一つありまして。
何かに対して『美しい』という感情が全くと言っていいほど湧かなくなっているのである。
綺麗だなぁと思うことはある、しかし美しいと思うことは無い。
各々、解釈や感じ方はあると思うが、個人的に『綺麗』と『美しい』は違う感情だと思うのです。

ここ数年、桜の花を見て『美しい』と思うことがなくなった。勿論、綺麗だとは思う、でも美しくは無い。

美しく思えないのは何故だろうなぁと暫く頭を悩ませて考えてみた。

美しいと感じた桜の花は1度だけある。
小学校の入学式の時に幼馴染と一緒に見た桜の花だ。
あの桜の花は本当に美しかった、幼ながらにそう思った。今でも鮮明に覚えている。
恐らくあの時、あの瞬間、あの場所で、私は『美しい桜の花』を無くしたんだと思う。
あれ以来桜の花を美しいと思った事は無い。

『美しい』という感情はおさらく、綺麗+特別な状況から生まれるものなんでしょうね。
あの時入学式であった事、大好きな幼馴染と桜を見れたこと、それらが桜の花を美しいと感じさせたんだろうね。

しかし、幼い頃はこう、見るもの全てが高解像だったような気がする。パンフォーカスでシャープネスギチギチって感じ。
全てが美しかった気がするね。
歳を重ねるということは鈍感になっていく事なのかもしれない。
自然の家で観た夜空の星の美しさ。好きだったあの子の泣く顔の美しさ。ホールに響くオーケストラの聴覚的な美しさ。
幼い頃にある程度の『美しい』は消化されてしまったんだろうな。切ないな。

嗚呼、歳をとりたくない。
感性が鈍くなるのは恐ろしい。

改めて桜の花を美しいと思う時は来るのでしょうかね。
これからの人生、美しいを見聞きする時はあるんでしょうかね。
不安になってきた。
無いと困る。有ってくれないと。

あ、桜の花言葉は『純潔』らしいです

羅生門

先日、ある嘘をついたんです。

行きつけの喫茶店でよく会う顔馴染みのお爺さんが居るんです。
その人とたまに会話をすることがあるんですよ。
これといって内容がある理由でもない日常会話なのだけれどね。
『寒いですね。そう言えば、お兄さん選挙には行きました?』とお爺さんに質問されたんです。
私は『行きましたよ。』と答えました。

これです。
嘘をつきました。

私は選挙、つまり投票には行ってないんです。
大した嘘ではないだろう、と思うでしょう。

些細な嘘です。

が、

私は嘘が苦手なんです。
どんな嘘であろうと許せないんです。
嘘をつくのも、つかれるのも。
こうして、嘘を日記に書いてしまうくらいに嫌いなんです。
なるべく、というか、嘘はつきたくないんです。

じゃあ私はなぜ『選挙に行った』と嘘をついたのか。
素直に『行ってないです』と言えば良かったのに、必要の無い嘘をついてしまった。

『私はなぜあの時嘘をついたのか』というより『私はどんな時に嘘を付いてしまうことがあるのか』という事にあのお爺さんに嘘をついてから暫く考えていたんです。

結論を言えば『私の人生に関わりがない人』に対して私は嘘をついてしまう気がします。

喫茶店のお爺さんは私の人生には関係ない人、と瞬間的に判断し嘘をついてしまった、という事だと思います。

勿論、友達、今後友達関係になるである人達、恋人などには嘘をついていません。ついていないと思います。
まぁ相手が『嘘だ』と言えば嘘になってしまうんですけどね。

嘘にも色んな種類があり、嘘の濃度、規模、許容範囲、人それぞれだと思います。

世間に蔓延る嘘、
例えば
人に自分の誠実さを信じて欲しい為につく嘘
プライドの高い女の人が自分の自尊心を侵されない為につく嘘
見栄を張りたい男が自分の武勇伝をファンタジーを交えつつ話す嘘
話を円滑に進める為の嘘
中高生カップルが口癖の様に囁き合うずっと一緒に居ようねなどと言う甘酸っぱい嘘
好きでもない恋人に好きだよと言う嘘
などなど…

ちなみに私が1番嫌いな嘘は
『優しい嘘』
とやらです。
(恋愛脳の人達が酔いしれる優しい嘘。
クソくらえ、殺すぞ、死ね。何が優しい嘘だ。
くらいに思っています。)

嘘の例を上げてみたらどれもくだらないものばかりな気がしますね。
私が喫茶店のお爺さんについた嘘は『話を円滑に進めるための嘘』の部類だと思います。


日記タイトルの『羅生門
なぜ、羅生門にしたのか

羅生門芥川龍之介の代名詞的作品ですね。
職を失い途方に暮れる下人が羅生門にて悪に目覚める話ですね(割愛しまくりですが。)

羅生門は人のエゴイズム、必要悪について説いた作品です。

生きる上で必要悪が必要であるように『必要嘘』というのがあってもいいのでは無いかと思います。

ドストエフスキーが人生でもっとも難しい事は嘘をつかずに生きる事だと言ったように、必要な時には必要な嘘をついても良いんじゃないだろうか、と思ったりします…

いや、無理だ。

普段から嘘をつかない人間が眉一つ動かさず嘘なんて言えるわけがない。

とにかく、私は嘘が嫌いです。

さっき述べたように嘘に対する意識というのは人それぞれだと思いますし嘘をつくのは自由だと思います。
でも、人を傷つけてしまうような嘘は許されないんじゃないかと、私は思いますね。

だから私は嘘が嫌いなんです。

この世に優しい嘘なんて存在するわけがないんです。

いつものS極とN極。

私です。

先日、友人と飲みに行ったんです。
とくにこれと言って理由があるわけでもない、唯々、会って、駄弁って、飲んで。
それだけなんですけどね。
その友人、一つ年下なんですよね。
出逢って5,6年になる仲なんです。
出会いはネットがきっかけ。Twitter。。
Twitterを通して出会ったんです。
初めて彼と顔を合わせた時『あ、この人とは仲良くできないな』と思ったんですよね、瞬間的に。
それなのに、不思議なもので今では暇な時には会って遊んだり、食事したりする仲にまでなってしまった訳で。

私とその友人、色々と真逆なんですよ。
何が 真逆 か。
性格、好み。こう、なんて言うんだろうな、アイデンティティというか、私と彼を成り立たせているそのモノが真逆って言うんですかね。
兎に角、真逆なんです。正反対なんです。
彼はポジティブで私はネガティブ。
彼は短気で私は気長。
彼は辛党で私は甘党。
彼は夏が好きで私は冬が好き。
彼はおしゃべりで私は無口。
彼は女遊びが好きで私は女遊びとは無縁。
彼は車が好きで私は車など一切興味が無い。
彼はパチンコによく行くが私はパチンコなどしない。
彼は人に関心があるが私は他人に無関心。
お酒の好み、服装の傾向、音楽のジャンル。
言い出したら恐らくキリが無い。

彼との共通点と言えば喫煙者であること、足を悪くしていること、気分屋であること、くらいしか思い浮かばない。
兎に角、真逆、正反対なんです。

そんな友人と飲みに行ったんです。

行きつけの居酒屋へ向かった。
カウンター席に座った。メニュー表を眺めて『なに注文する?』と聞いてくる友人。
『適当に』と答える私。
友人はビール、私はピーチウーロンで乾杯。
一口飲み、友人が『美味い』と言ったので『美味しいね』と答えた。

いつもの事。いつもの光景。続かぬ会話。それが僕らの飲み会。

友人は私たちの隣に座っていた先客といきなり会話をし始めた。
これもいつもの事だ。
先客はかなり出来上がっていた。
彼の初対面の人と会話が出来るコミニュケーション能力にはいつも感心する。
一生掛けても、私には得る事の出来ない能力だと思う。
私はカウンターの向こうで注文された品を忙しなく調理する定員さんとスマートフォンを交互に眺めながらタバコを吸っていた。
そんな私が退屈そうに見えたのか、話題を私に振ってきた。
先客との『会話の輪』に入れてくれようとしている。これもいつもの事で、彼なりの優しさなのだけれど私はその優しさがいつも面倒くさく感じて仕方ない。
私は友人が誰かと話していても気にしない。むしろ、その姿を眺めているだけでも楽しかったりする。退屈そうに見えて実は楽しんでいるんだ。それを友人は恐らく知らない。もちろん、言ってもいない。
『一つの会話から一つの会話へ繋ぐ事』が彼は得意だ。
私は必要最低限のことしか普段から喋ることは無いのでいつも会話が終わってしまう。
真っ直ぐ進めばいいだけの会話の車を赤信号で急停止させてしまう。いつもそう。誰に対してもそうだ。

先客が店を出た。

残された友人と私はなんとなく仕事の話をして、なんとなく食事を終えて店を出た。半年ぶりの再会というのに全く会話が弾まなかった。

バーに向かった。

バー向かっている最中に友人が『さっき、退屈そうだったから話に加えてやろうとしたんだけど』と言ったので『いや、俺はあんたが話している姿を眺めているだけで楽しいから放っておいて頂戴な』と言った。言うことが出来た。やっと言えた。

バーの扉を開けると僕らの顔を見て『やぁ』という声が聞こえた。
居酒屋にいた先客さんだった。

心の中でこの町はなんて小さい世界なんだ、とふと思った。

カウンター席に座り飲み物を頼んだ。私は相変わらず甘いお酒しか頼まないし彼は彼で渋いお酒をチョイスしている。

バーにはカラオケの機材があり歌を歌うことが出来る。
友人はバンドのボーカルをしていた経験もありとても歌が上手かった。もちろんその店でも歌声を披露した。
お客さん達は口を揃えて君上手いねと言った。
彼は満更でもない表情をしていた。
バーでも友人は私以外の先客達と談笑していた。
それでいい。これでいい。
別に嫌な気分ではない。
楽しそうに話す友達の顔が好きなだけなんです、純粋に。
私は先客達や友人の歌を肴にお酒を楽しんだ。
いい具合に酔ってきた頃、『飽きたでしょ』と私の顔を見て言った。
その通り。飽きた。
これもいつもの事だ。
『飽きた?』『眠い?』『疲れた?』
飲み会でこの三つのワードのどれかを必ず彼は私に問い掛けてくる。
顔に出ているのかと心配になった。
素直に『飽きた。』と返事をした。
でしょうね、と友人は言った。
正直に飽きた、眠い、疲れたなどと言えるのはその友人だから、親しい仲だからだと思っている。

私はタバコを吸い終えてグラスに残った可愛い色をしたお酒を一気に飲み干し、お代と友人を残して1人で先に帰った。
僕らの飲み会はいつもこう、いつもの事だ。
帰り道はいつも1人だ。
そういえば1人だ。
友人と一緒に帰った事がない。記憶にない。今、気が付いた。

今度飲む時は一緒に帰ってみようかと思う。
気持ち悪い気もする。

友人はこんな私の事を飲みに誘ってくれる。自分でも退屈な人間なことは自覚している。
こんな人間と飲んでいて何が楽しいのか全くわからない。
私の数少ない友達。これからも大切にしたい。

そういえば、帰り道の月は非常に綺麗だった。

写真に残しておけば良かったと後悔している。

2017-01-22

いつもこの時間帯は憂鬱になる。始まってしまえばいつもの事。いつもと変わりのない日々になる。
旅のあとの身体の内側が空洞になったような感覚は嫌いではない。
多分、寂しいんだと思う。楽しかった時間を終えた事。また平凡に戻ること。何も無い自分の街に戻ってきたこと。
『楽しい』を連続、持続させるのには時間もお金も体力も必要で私にはそれらをバランスよく扱う事、作る事が出来ない。


大阪の病院での検査結果は良かった。
『順調ですね』と言われて安心した。
視力は大分回復しているようだ。
一先ず安心。安心。
安心って良いね。いい言葉だよ。

次回の通院は3月。
またその時までお楽しみは我慢かな。

とりあえず甘い物が食べたい。
コーヒーを淹れよう。
暖房が暑い。
お風呂に入ろう。

また明日から仕事です。