『お勧めの本は何ですか?』という質問に対し、

私は読書をある程度嗜んでいる。矛盾点ではあるが本を読むことは実を言うとあまり好きではない。私の読書は現実からの逃避行動的要素が大半なのではっきり言ってしまえば読んでいるようで読んでいないのだ。(内容はしっかり頭には入っているのだが)

そんな人間に降りかかる問題が以下である。

本を読む人間として避けられぬ課題である。そう、よく、質問されるのである。

『お勧めの本は何ですか?』と。

私はこの質問と何度も遭遇してきた。そして何度も頭を抱え眉間にシワを寄せ狼狽してきた。(これからも質問は何度もあるであろう)

質問者には申し訳ないが私みたいな小難しい人間にこの手の質問を投げかけるとは何事か!と常々思う。

この手の質問をする人は大抵、"日頃からあまり本を読まない人"がよくするものである。

逆にこの質問が持つ残酷性、難解性を理解しているから本を読む人間は他人に『お勧めの本は何ですか?』などと聞いたりしないだろう。

以前の私ならお勧めの本は何ですか?の問に対しアレやコレやと丁寧に解答(適当に)していたが最近ではもう面倒というか、この質問に解答する責任が自分には専ら存在していないのだと感じている。というのも、この『お勧めの本は何ですか?』に対する解答をするのだとしたら、私の返事は以下の2つのみである。

 

「"本"というのは人から勧められて読むものではありません、なのでお勧めの本などありません」

「愚問!読みてぇ本ぐらい本屋に足運んで自分で見つけろやアホんだら!」

この二択のみである。

 

大前提として、そもそも人には好みがある。別に本に限った話ではない。食べ物の好み、音楽の好み、その他諸々。

極端ではあるが分りやすい例を音楽で例えてみよう。

ベートーヴェンモーツァルトなど「私のお耳はクラシックがお好きなのよ、オホホ」という高尚な鼓膜の持ち主にベースの重低音ゴリゴリのヘビーメタルを勧めたところで聴くわけがないのである(逆も然り)。

演歌が好きな御仁にハードコアパンクを勧めたところで聴かないのである(逆も然り)。

 

小説、文学においてもそうである。

角田光代川上未映子といった恋愛小説が好きな人間に夢野久作の奇書ドグラマグラを勧めたところで目がバグるだけである。

太宰治三島由紀夫川端康成を愛読する純文学家に野菜でマスターベーションをするOLの日々を描いた官能小説を勧めたところで発狂するだけである。

そもそも文学には『純文学』『大衆文学(娯楽文学)』がある。さらに細かにフォーカスを当てると自己啓発本、エッセイ、詩、短歌、川柳など、カテゴリーが山ほどある。

と、言ったところで改めておこう。

『お勧めの本は何ですか?』という質問。

これは残酷性、難解性が非常に高い、そして繊細でデリケートなのである。

私が他人に何かモノを勧める際に最も気を付けていることは、紹介したものに対する感想を絶対に求めないということである。それを読まなければいけない、観なければいけない、聴かなければいけないという義務感を相手に感じさせてしまった時点で、その人の受容を歪めてしまうからである。

故に人に"本をお勧めすること"を私は苦手としている。

私自身は他人からのお勧めの小説や音楽を教えてもらうことは新鮮な刺激を与えてくれるので非常に好きである。しかしその逆は極端に苦手、いや、もはや嫌悪と言っていいほどダメなんである。

 

他人に本や音楽を勧めるのをやめろ!と言いたい訳では無い。勧めたい人は勧めればいい、受け取りたい人は素直に受け止めればいい。各々自己完結させればよい。それだけなのだ。

 

本というのは人から勧められて読むものでは無い。本屋に足を運んで自ら選んだ本こそお勧めの本なのである。本が君を呼んでいるのである。これは比喩ではない。事実である。本が自然と君を呼び寄せるのである。

 

ただ、私のようにこの『お勧め問題』に頭を抱えてしまう人間も居るのだということを頭の片隅に置いておいて欲しいという切実な願いを書き残しておく。

 

以上。