傘。
朝、目覚める。外の音に耳を澄ます。
あー...と思いながら寝ぼけ眼でカーテンの隙間から外を見る。
雨だ。
そうか、雨か。なるほど、と思う。
駅に向かう。傘を差している人が目に付く。
傘を差すほどでもないだろ、小雨じゃん。と心の中でつぶやく。
私は傘を差さない、というか傘を持って家を出ていない。
なぜなら、傘を持つことが面倒くさいからである。
筋金入りの面倒くさがりに拍車が掛かり私の中にある傘を差すレベルの雨というものが年齢と共に底上げされ続け雨の日に傘を差すという文化が私の中から消え失せてしまった。
お天気キャスターの言う『明日は突然の雨になる。傘を持ったほうがいい。』くらいでは傘を差さないのだ。
私が傘を差すのは『土砂降り』『バケツをひっくり返したような雨』 『台風』の時だけである。
傘の拘束感。手に傘の柄を持つというのが、本当に嫌い。
というか、傘を差しても濡れるときは濡れるじゃないか。という開き直りの部分が強い。
雨が降る、傘を差す、だが、下半身は濡れるのが確定、傘の角度次第では肩も濡れる。
ほら、結局濡れるのだよ。
傘の雨に対する防護範囲というのは非常に狭い。
傘というのはどこを雨から守ることが出来たら傘として成り立つのか。
そもそも、人は何故傘を差すのか。
答えは簡単。
『雨だから何となく傘を差している』に相違ない。
それと、日本人特有のマジョリティーに属していないと不安になる病がこの雨の日に傘を差すという文化を作っているのだ。
『周りの人は傘を差している、私も傘を差さないとおかしい、恥ずかしい』と考える人が多い故なのだ。
しかし、傘というのは進化しないな。
手に持つタイプの傘が旧式になる時代は来るのだろうか。
その時代が来たら私も傘を差すだろう。
だれか、傘に21世紀感を。