幸せの距離。幸せの単位。

最近、幸せについて云々考えることがある。
というのも、幸せとはなんぞやという質問をここ最近良くされるのである。
幸せなぁ、目に見えるモノでもないしなぁ、あんのかよそんなもん、知らねぇよ自分で考えなよ。
と言いたくなるだがそういう訳にもいかない。
幸せなんて千差万別で『君の幸せは?』と問われて回答しても君の幸せはその程度なのか?私の幸せはこんなに偉大なのだよ。と笑われそうになるのが私なりの幸せの定義であるのだけど、やっぱり幸せってのは各々違うわけですよ。
私に幸せについて質問してくる人は大抵、恋人関係を中心にした幸せの在り方について悩んでいるパターンが多い気がする。
人の好意を無駄にしてしまう、好意を無視する、愛情を返してやれない、好きな人が恋人になってしまうと退屈、常に刺激が欲しい、恋人が居てもほかの人を追いかけてしまう、そんなだから私は幸せになれない。
というのだ。なるほどなぁ、わかるけどなぁその気持ち。
実際、気にすることないんじゃないかなとは思いますけどね。
好きな人(仮)を一人に留める事が難しい人は別に一人に絞ろうとせず恋の矢印を多方面に分散させて中和するのがいいと思うんだよね。よくある喩えを出すなら、いろんな人に好意を振る舞いてジェットコースターの絶頂(幸せを感じる瞬間)を短いスパンで繰り返す恋愛をすればいいと思う。 それが彼女たちの恋愛の仕方で幸せに近づくステップなのだから、否定はしないよね、出来るわけがない。そしてここで重要なのは恋人になるようなマネはしない事だよね、だってそのジェットコースターの運転に支障が出るからね。

そんな話はさておき、私の幸せはどうなんだと言う話だ。
私の幸せは、こう、恋人、ましてや対人関係で発生するものでは無いのですよ。
ハッキリいうと恋人なんかに幸せを望んでいないんですよね。恋人との交際で幸せを作ろうだなんて私は人生で一度も思ったことがないのである。上記の彼女たちの幸せとはまた少し在り方が違うのである。
恋人に信用や期待、幸せを望むのは自分の中ではなにか違うんですよね、違うというのもまた違う気がするのだけれどもね。(今までの人生が色々と裏切りの連続だったものでこうも歪み腐った性格になってしまったわけです。)

実際のところ自分にとっての幸せがなんなのか全くわからない。
瞬間的な幸せはわかるし感じることはある。友達と飲みに行った時、喫茶店で寛いでいる時、好きなバンドが新しい曲を発表した時、幸せを感じる。
でもこれは一時的なもので幸せを感じるには感じるが高速で幸せと擦れ違ってるだけな気がするんだよね。幸せの純度が高いが余韻は短い。幸せの基準が凄く低いとは思っている、いや、むしろ逆なのか?幸せの理想が高いから満足しないのだろうか。うーむ、幸せが迷子だ。
ただ、私も幸せ(仮)になるための目標というのを一つ定めている。
それは、今この現状から逃げる事だ。
この退屈な日々、ストレスを感じる環境、そこから逃げること。
逃げて、一人になってどっか知らん土地で私のことを知ってる人なんて居ない環境で、自分の丈にあった仕事をして生活出来る最低限の収入を貰い、落ち着いた喫茶店で一人ぼーっとしたい。
それが私の幸せの在り方だと思う。
私の幸せはどうですか?これを読んでるあなたにとって私の幸せはくだらないですか、基準が低いですか、純度がないですか。
でもね、これが私なりの幸せだと思うんだよなぁ。

幸せに近付く為に準備はゆっくりとだがしているつもりではある。先日、相談窓口へ足を運んだくらいなのだ。しかし先立つモノが必要なのだよね~。
幸せにはお金が掛かるなといつも思う。苦しい現実。私の貯金通帳は常にリアリティで溢れている。幸せの単位が『円』だったら悲しいなとそんな事を思いながら通帳でATMにビンタをしたりするのである。
幸せまでの道のり、険しそうですね。
幸せまでが遠い。

逃げたい。逃げてやる。いや、マジで逃げるから。