傘 その2。

仕事からの帰宅中、小雨が降っていた。
いや、小雨と言えば大げさに聞こえるような極わずかな、降っているのか降っていないのかわからないほどの小雨だったのであるが、しかしその極わずかな小雨にたいしてもやはり居たのである、傘を差している人が。
私はその傘を差している人を見て目眩がした。
くらくら~。
「この小雨でも差すか」と。
雨に対する免疫が無さすぎるのでは?と、私は問いただしてみたくなる。
「すみません、この小雨でも傘をお差しになるんですか?」と。
雨に対する意識が麻痺しているのは私なのかそれとも傘を差していた彼なのだろうか。
雨に対して神経質になる人と私のように無関心な人の差は激しい。
自分と世間の雨に対する意識のズレ。うーむ。

しかし、それを超える衝撃が訪れたのはすぐ後のことだった。
目の前からやってきたのだ。

自転車を漕ぎながら片手で傘を指している人、が。

『マジか』と思わず声が零れた。
これは前回の記事で称えた雨だからなんとなく傘を差している論から大きく外れた類の人だ。
もはや意味が分からなかった。
降っているかわからない程度の小雨で自転車を漕ぎながら、さらに傘を差している。危ない。
なんなんだ。雨に対して免疫が無さすぎるだろ、神経質すぎるだろ。雨をそれほど嫌悪しているのか君は。なんなんだ。目眩がする。
傘を片手に持ちながらの自転車の運転は危険だ、しかしその危険を顧みてまで雨に濡れたくないというのか。私には理解できない行動だ。もはや尊敬する。

この手の人は条件反射的に傘を差してしまうのだろうな。。。
もう、そういうことにしておこう。
傘を差すというのは、行動ではなく症状なのだ。
きっとそうだ。

とりあえず、傘を差しての自転車の運転は危ないのでやめて頂きたいな。
傘は思う存分、差していいから。

 

傘。

朝、目覚める。外の音に耳を澄ます。

あー...と思いながら寝ぼけ眼でカーテンの隙間から外を見る。
雨だ。
そうか、雨か。なるほど、と思う。

駅に向かう。傘を差している人が目に付く。
傘を差すほどでもないだろ、小雨じゃん。と心の中でつぶやく。

私は傘を差さない、というか傘を持って家を出ていない。

なぜなら、傘を持つことが面倒くさいからである。

筋金入りの面倒くさがりに拍車が掛かり私の中にある傘を差すレベルの雨というものが年齢と共に底上げされ続け雨の日に傘を差すという文化が私の中から消え失せてしまった。

お天気キャスターの言う『明日は突然の雨になる。傘を持ったほうがいい。』くらいでは傘を差さないのだ。
私が傘を差すのは『土砂降り』『バケツをひっくり返したような雨』 『台風』の時だけである。

傘の拘束感。手に傘の柄を持つというのが、本当に嫌い。

というか、傘を差しても濡れるときは濡れるじゃないか。という開き直りの部分が強い。

雨が降る、傘を差す、だが、下半身は濡れるのが確定、傘の角度次第では肩も濡れる。
ほら、結局濡れるのだよ。


傘の雨に対する防護範囲というのは非常に狭い。

傘というのはどこを雨から守ることが出来たら傘として成り立つのか。
そもそも、人は何故傘を差すのか。
答えは簡単。
『雨だから何となく傘を差している』に相違ない。
それと、日本人特有のマジョリティーに属していないと不安になる病がこの雨の日に傘を差すという文化を作っているのだ。
『周りの人は傘を差している、私も傘を差さないとおかしい、恥ずかしい』と考える人が多い故なのだ。

しかし、傘というのは進化しないな。

手に持つタイプの傘が旧式になる時代は来るのだろうか。

 

その時代が来たら私も傘を差すだろう。

 

だれか、傘に21世紀感を。

 

 

ワイヤレス 2

身のまわりには案外ワイヤレスがあるものだなと気付く。

 

掃除機。これもワイヤレスだ。コードが無いハンディタイプだ。

 

電話機。これもワイヤレスだ。一昔はくるくる巻きのコードが付いていたのに。

 

パソコンのマウスやマイク。その他、なんやかんや。

 

あらゆる電子機器は徐々にワイヤレスになりつつある。

 

ワイヤレスのイメージを飛躍させてみる。

 

ワイヤレス電線。
うーん、ほんのりとした近未来感。

 

ワイヤレス綱引き。
勝敗がつかないだろう。大変だ。

 

ワイヤレスプロレスリング。
アクロバティックな技が出来なくなるだろう。空中殺法が只の殺法になってしまう。

 

ワイヤレスロープウェイ。
空飛ぶ椅子であろうか。乗ってみたい。

 

ワイヤレスバンジージャンプ
娯楽性を含んだ自殺。ギャップが凄まじい。
いろんな意味で怖い。

 

 

ワイヤレス

「まさにワイヤレスじゃないか...」
天を仰ぎ思わず店内で唸り声を上げてしまった。
それと同時に時代の流れに一歩、いや、何十歩と追いつけていない自分に気が付く。
電器屋さんでワイヤレスイヤホンという物を視聴してみたのである。
視聴というべきか、体感というべきか、あるべき所にあるはずのコードが無い、まさにワイヤレスなるものを身をもって経験したのである。
それの心地良さ、快適さに感極まり即買いした程である。

買ったその翌日から早速使い始めた私。


通勤中の音楽が一味違うものに感じられた。
気持ちが良い。だってワイヤレスだもの。


コードが絡まる心配がない。だってワイヤレスだもの。


コードがどこぞの女子高生のカバンのキーホルダーに引っかかる心配もない。だってワイヤレスだもの。

 

気持ちが良い、非常に。

 

サラリーマン。耳にはイヤホン。非ワイヤレスである。

女子高生。耳にはイヤホン。非ワイヤレスである。

 

ふふっ、私はワイヤレスだぞ。

 

私の中に訪れたワイヤレス革命。

 

気持ちが良い。だってワイヤレスだもの。

 

 

文房具屋童貞。

仕事が終わり立ち寄った文房具屋。

とくに何かを買う予定はない。 

しかし立ち寄る度見てしまう物がある。

『試し書きコーナー』である。

ペンの試し書き。

文房具屋の小さなアトラクション。

紙に書かれた個性的な文字や絵。

私は同じ筆跡が見当たらない試し書きコーナーを見るのが好きなんである。

いつもはその試し書きコーナーをふむふむと眺めて店を出る。

しかし今日の私は違う。 

人生初の試し書きを試みた。

0.5mmの油性ペンを手に取る。

キャップを抜き。

よし、と気合いを入れる。 

試し書き童貞喪失の瞬間。

 

あぁ...あぁ...

 

手が震える。

 

私の持病である『意味わからんところで緊張する症』の症状が現れ始めた。

 

ペンを持つ手の手首を左手で抑える。

落ち着け、落ち着け。

自分に言い聞かせる。

 

書けた。

 

『君は誰?』

 

試し書き童貞喪失。

大きく息を吐く。

 

息を殺して書いたそれを見る。

 

ニヤッとする。

 

楽しい。

 

るんるん気分で店を出る。

 

 

 

幸せの距離。幸せの単位。

最近、幸せについて云々考えることがある。
というのも、幸せとはなんぞやという質問をここ最近良くされるのである。
幸せなぁ、目に見えるモノでもないしなぁ、あんのかよそんなもん、知らねぇよ自分で考えなよ。
と言いたくなるだがそういう訳にもいかない。
幸せなんて千差万別で『君の幸せは?』と問われて回答しても君の幸せはその程度なのか?私の幸せはこんなに偉大なのだよ。と笑われそうになるのが私なりの幸せの定義であるのだけど、やっぱり幸せってのは各々違うわけですよ。
私に幸せについて質問してくる人は大抵、恋人関係を中心にした幸せの在り方について悩んでいるパターンが多い気がする。
人の好意を無駄にしてしまう、好意を無視する、愛情を返してやれない、好きな人が恋人になってしまうと退屈、常に刺激が欲しい、恋人が居てもほかの人を追いかけてしまう、そんなだから私は幸せになれない。
というのだ。なるほどなぁ、わかるけどなぁその気持ち。
実際、気にすることないんじゃないかなとは思いますけどね。
好きな人(仮)を一人に留める事が難しい人は別に一人に絞ろうとせず恋の矢印を多方面に分散させて中和するのがいいと思うんだよね。よくある喩えを出すなら、いろんな人に好意を振る舞いてジェットコースターの絶頂(幸せを感じる瞬間)を短いスパンで繰り返す恋愛をすればいいと思う。 それが彼女たちの恋愛の仕方で幸せに近づくステップなのだから、否定はしないよね、出来るわけがない。そしてここで重要なのは恋人になるようなマネはしない事だよね、だってそのジェットコースターの運転に支障が出るからね。

そんな話はさておき、私の幸せはどうなんだと言う話だ。
私の幸せは、こう、恋人、ましてや対人関係で発生するものでは無いのですよ。
ハッキリいうと恋人なんかに幸せを望んでいないんですよね。恋人との交際で幸せを作ろうだなんて私は人生で一度も思ったことがないのである。上記の彼女たちの幸せとはまた少し在り方が違うのである。
恋人に信用や期待、幸せを望むのは自分の中ではなにか違うんですよね、違うというのもまた違う気がするのだけれどもね。(今までの人生が色々と裏切りの連続だったものでこうも歪み腐った性格になってしまったわけです。)

実際のところ自分にとっての幸せがなんなのか全くわからない。
瞬間的な幸せはわかるし感じることはある。友達と飲みに行った時、喫茶店で寛いでいる時、好きなバンドが新しい曲を発表した時、幸せを感じる。
でもこれは一時的なもので幸せを感じるには感じるが高速で幸せと擦れ違ってるだけな気がするんだよね。幸せの純度が高いが余韻は短い。幸せの基準が凄く低いとは思っている、いや、むしろ逆なのか?幸せの理想が高いから満足しないのだろうか。うーむ、幸せが迷子だ。
ただ、私も幸せ(仮)になるための目標というのを一つ定めている。
それは、今この現状から逃げる事だ。
この退屈な日々、ストレスを感じる環境、そこから逃げること。
逃げて、一人になってどっか知らん土地で私のことを知ってる人なんて居ない環境で、自分の丈にあった仕事をして生活出来る最低限の収入を貰い、落ち着いた喫茶店で一人ぼーっとしたい。
それが私の幸せの在り方だと思う。
私の幸せはどうですか?これを読んでるあなたにとって私の幸せはくだらないですか、基準が低いですか、純度がないですか。
でもね、これが私なりの幸せだと思うんだよなぁ。

幸せに近付く為に準備はゆっくりとだがしているつもりではある。先日、相談窓口へ足を運んだくらいなのだ。しかし先立つモノが必要なのだよね~。
幸せにはお金が掛かるなといつも思う。苦しい現実。私の貯金通帳は常にリアリティで溢れている。幸せの単位が『円』だったら悲しいなとそんな事を思いながら通帳でATMにビンタをしたりするのである。
幸せまでの道のり、険しそうですね。
幸せまでが遠い。

逃げたい。逃げてやる。いや、マジで逃げるから。