餌付け。

野良猫に、野生動物に食べ物を与えたくなる気持ちは理解できるよね。(過去の記事参照)

しかしだね、

野生動物には飢える権利も飢えて死ぬ権利もあるのだよね。

私はそんな事を野良猫に餌付けしながら思うのであるよ。

世の中には早く死んだ方が幸せな野良も居るのだろうね。

無関心おにぎり。裏切りの猫。

私に懐いていた子猫が職場に来なくなってから秋が過ぎ、冬が訪れた。
あの子猫はどこに行ってしまったのか。
何となく寂しいのである。

そんなことはさておき、また新たな猫との出会いと、その猫に裏切られるまでの話を一つ。

最近、職場の近くにコンビニが出来たのである。
7と11のコンビニである。
私は仕事終わりにそのコンビニで煙草を吸いながら缶コーヒーを飲むのがいつからか習慣になった。
そんなある日、彼は居た。猫だ。
煙草を吸う隣で私のことをジッと見つめていたのだ。
物欲しそうな声でにゃーにゃー鳴いている。
はてな、と思う。なにか欲しいのだろうか。お腹でもすいているのか。いや、この鳴き声は確実に、例の職場で聞き慣れた何かをねだっている時の声だ。
私はコンビニに入りおにぎりコーナーへ足を運ぶ。
そして悩む。猫は、何おにぎりが好きなのか。うーむ、悩む。鮭?おかか?塩むすび?それともパンか?
全くわからない。そもそも猫はおにぎりを食べるのかすらもわからない。
とりあえず私は塩むすびを一つ買って店を出た。
袋の音に反応して、まさに『猫なで声』で私のそばへ寄ってきた。
塩むすびを開封して恐る恐る彼に与えてみる。
彼は少しづつ塩むすびを食べた。
よかった。ビンゴだった。塩むすびで正解(?)のようだった。
その日から彼を見かける度にコンビニで塩むすびを買い与えるようになった。
仕事終わりの珈琲を飲みながらタバコを吸う習慣にさらに一つ習慣が新たに加わった瞬間であった。

塩むすびを買い、食べさせる。

塩むすびを買い、食べさせる。

塩むすびを買い、食べさせる。

そんなことを連日繰り返していたある日、彼の異変に気付く。
例によって塩むすびを買ってコンビニを出て彼に与えてみたところ、食べなくなったのだ。
おや?と思う。
最初はお腹が減って居ないのだろうと思い食べる姿を見ることなく塩むすびを置いて帰っていた。
しかしその翌日も塩むすびを与えてみたが食べない。
その次にあったその日も食べない。
何故だ。
日に日に彼のおにぎりへの無関心の質が上がっていく。
観察を続けた結果どうやらおにぎりを食べないのはお腹が減っているどうこうの問題では無さそうなのである。
それは彼の態度を見ればよく分かった。
塩むすびに関心が全くと言っていいほど無くなっ ていたのである。ほんとうに、全く、なんである。
塩むすびに対する純粋な無関心である。
私がコンビニを出る、袋の音に反応してやって来る。しかし塩むすびを見た瞬間彼の関心は『無』に変わるのだ。
恐ろしい。そしてなぜか虚しい。
私は直ぐに察した。
彼は恐らく、『塩むすびよりいいモノ』を誰かに食べさせてもらっているに違いない、と。

塩むすびを与えることを辞めて暫くのこと、
私は仕事終わりに相変わらず珈琲を飲みながら煙草を吸っていた、隣にはもちろん彼がいる。
そして突然やってきたのだ『塩むすびよりいいモノ』を彼に与えていた犯人が。
犯人はコンビニから出てきた、カップルだった。
彼はそのカップルに対して私に向ける以上の素晴らしく素晴らしい、なんとも言えぬ猫なで声で近づいていった。
するとカップルの女性が
「おまたせ~」
と陽気な声で彼に『いいモノ』を与え始めたのだ。
そのいいモノの正体は缶詰であった。
彼は物凄い勢いで缶詰を食べ始めた。
私は天を仰いだ。
なるほど、缶詰、か。魚か。
彼にとって缶詰は塩むすび以上の価値であったらしい。(そりゃそうですよね)
女性の言った「おまたせ」には彼に対する親しみを感じた、つまり与え慣れているに違いなかったのだ。
私はショックだった。
ユダに裏切られたキリストの気持ちが少しばかり理解出来たのではないか。
今までの私の塩むすびはなんだったのか、私の塩むすびはカップルの缶詰によって全て上書きされたのだ。
この現象はアレだ、安心感や優しさを求めてたくさん連絡を取り合っていた寂しがり屋が新しく別の誰かに新鮮な優しさや安心感やそれ以上のものを貰いに何事も無かったかのように自分の元からどこかへ行ってしまう恋愛ごっこのそれと全く同じではないのか。

よくわからない悔しさが足の裏から脳天まで登ってくる。

ショック、虚しい、悲しい。それと同時にひとつまみの怒りに近い感情。。。

私はカップルの缶詰に負け(?)たのだ。

はぁ、猫というのは非常に正直だな。
彼にとって私は都合のいい塩むすびの人なだけだったのだな。

そう、改めて実感した冬の始まりであった。

塩むすびよ、もう君を買うことは無い。

 

白々しさ、冬。

口から漏れる空気が目に見える。
白い。目に見えて白い。なんだこの白さは。
秋の終焉のための冬なのか、冬の開場のための秋なのか。
金木犀の悲鳴が聞こえた。秋という季節が暴力的なまでに強制終了させられた、そんな今年の秋であるよ。
紅葉に風穴が開きそこから冬が弾丸のごとく突き抜けていき、その銃弾を追いかけるかのようにイルミネーションやサンタクロースやお年玉がゴロゴロゴロゴロと零れてゆくのだ。
残酷だなぁ。
ついこの間、『あけましておめでとうございます』と言ったばかりじゃないか。
年末という二文字を踏みしめながら、噛み締めながら、吐き出しながら。
然し、冬のために、冬になり、冬なんである。

 

ご都合主義。

都合の良い関係。というのがある。
都合の良い関係かぁ、そうか。
ならば都合の良くない関係とは何なのだろうか、というか、そんなものがあるのだろうか。あるとしたら縁の切れ目ではないだろうか。

結局のところ、世の中の全てが都合のいい関係性の永久的な連鎖で成り立っているのではないか。
自分に都合のいい選択を常に繰り返して生きる他ないのでは?

都合の良い異性間のあれこれについてもそうだ。
自ら進んで都合のいい関係という墓穴に喜んで頭を突っ込んで行く人ばかりではないか。
『付き合う』という行為も所詮都合のいい関係になるための手段なのだ。
「私はあなたが好きよ。あなたも私が好きでしょ?なら、お付き合いしましょう?友達以上の関係になりましょう?それがお互いにとって都合が良いでしょう?」
といった感じで、つまりは自分たちの都合のいいように付き合うのだ。
そして、都合が悪くなると別れるのだ。
とても単純なこと。
ただ、それだけの事なのに、なぜ『どうせ自分は都合のいい女/男なんだろう!』と嘆くのだろうな。


自らそれを望んでいたのではないか。


人はみんな、我儘だ。

 

そんな事を思う夜もある。

取り調べ的恋愛。

恋愛的に、人を好きになる事が滅多に無い。
こう、能動的に好意を抱く、またその感情が生まれて来る事をかれこれ何年間も経験していない。
私は、モテない。理解している。
だから、受動的な恋愛感情の作用があって徐々に好きになっていく。
というのがここ最近の自分の恋愛の形なんである。

自分にも、他人にも関心が無いんですよ、ほんとに。

然し、面倒なことに、異性、人を好きになったらとことん変態的なまでにその人のことを保存し尽くしたい欲に駆られるのだよね。
自明のこととして保存したくなくて同じことを何度でも聞いてしまうような部分がある。
好きな人の一回性を常に全力で記述したい、みたいな、ね。
例えば、好きな物、趣味、現在の恋愛から過去の恋愛まで全てを調書のように記述したい。出来るだけ具体的に、言葉で厳密に。

そしてそれらの質問を定期的に行いたい。

相手のことを突詰めて記述したり頭の中にそれらのことを置いておくとその人に近付けている感覚になるのだよね。
まぁ、所詮その感覚は「錯覚」なのだけれどね。
私はなにも無い人だから、その人で埋め尽くしておきたくなる。そこに安心を求めたりするのかも知れない。
『あなた性』に近付きたい欲。
それが私なりの恋愛なのだろうな。

まぁ実際恋愛とか、もうどうでもいいんですけどね。

今年のクリスマスは独りで居るよ。

アンハッピーメリークリスマス。