ご都合主義。

都合の良い関係。というのがある。
都合の良い関係かぁ、そうか。
ならば都合の良くない関係とは何なのだろうか、というか、そんなものがあるのだろうか。あるとしたら縁の切れ目ではないだろうか。

結局のところ、世の中の全てが都合のいい関係性の永久的な連鎖で成り立っているのではないか。
自分に都合のいい選択を常に繰り返して生きる他ないのでは?

都合の良い異性間のあれこれについてもそうだ。
自ら進んで都合のいい関係という墓穴に喜んで頭を突っ込んで行く人ばかりではないか。
『付き合う』という行為も所詮都合のいい関係になるための手段なのだ。
「私はあなたが好きよ。あなたも私が好きでしょ?なら、お付き合いしましょう?友達以上の関係になりましょう?それがお互いにとって都合が良いでしょう?」
といった感じで、つまりは自分たちの都合のいいように付き合うのだ。
そして、都合が悪くなると別れるのだ。
とても単純なこと。
ただ、それだけの事なのに、なぜ『どうせ自分は都合のいい女/男なんだろう!』と嘆くのだろうな。


自らそれを望んでいたのではないか。


人はみんな、我儘だ。

 

そんな事を思う夜もある。

取り調べ的恋愛。

恋愛的に、人を好きになる事が滅多に無い。
こう、能動的に好意を抱く、またその感情が生まれて来る事をかれこれ何年間も経験していない。
私は、モテない。理解している。
だから、受動的な恋愛感情の作用があって徐々に好きになっていく。
というのがここ最近の自分の恋愛の形なんである。

自分にも、他人にも関心が無いんですよ、ほんとに。

然し、面倒なことに、異性、人を好きになったらとことん変態的なまでにその人のことを保存し尽くしたい欲に駆られるのだよね。
自明のこととして保存したくなくて同じことを何度でも聞いてしまうような部分がある。
好きな人の一回性を常に全力で記述したい、みたいな、ね。
例えば、好きな物、趣味、現在の恋愛から過去の恋愛まで全てを調書のように記述したい。出来るだけ具体的に、言葉で厳密に。

そしてそれらの質問を定期的に行いたい。

相手のことを突詰めて記述したり頭の中にそれらのことを置いておくとその人に近付けている感覚になるのだよね。
まぁ、所詮その感覚は「錯覚」なのだけれどね。
私はなにも無い人だから、その人で埋め尽くしておきたくなる。そこに安心を求めたりするのかも知れない。
『あなた性』に近付きたい欲。
それが私なりの恋愛なのだろうな。

まぁ実際恋愛とか、もうどうでもいいんですけどね。

今年のクリスマスは独りで居るよ。

アンハッピーメリークリスマス。

好奇心と下半身。

飛べない鳥のあざとい看板
女が歌うテーマがループするドのつく量販店にふら〜っと立ち寄ったのです。
店内を宛もなくグルグル。店員さんの作ったハイセンスなポップが目に入る。
そして、グルグル、グルグル。宛もなくグルグル、グルグル。
そして、辿り着く。2階の片隅にピンクの暖簾と『18禁』
ムムっと思う。大人の聖域発見。
好奇心がザワつく。
いざ、暖簾の向こうへ。
そして待ち構えるファンタジー。
すごくピンクピンク。おおっと唸る。
特に関心は無いのだが、とりあえず品揃えを見る。
AVAVAVオモチャAVAVAV電マAVAVAV...
その中で一際私の目を引く強烈なアイテムが一つあったのだ。
『勃鬼ドリンク』
非常に強そうである。
手に取り、成分表を見る。すると市販されている栄養ドリンクとなんら変わりのない内容な気がしてならなかった。
うーむ。どうなのだろうか。これを飲んだら下半身がおギンギンになるのか?世の男共はこれを飲んで彼女を喜ばせたりするのだろうか、等と考えていた。
次第に好奇心がとめどなく沸き上がってきた。
そして好奇心が絶頂に達した時には私はレジで会計を済ませてしまっていたのだ。
買ってしまったのだ『勃鬼ドリンク』を。
店を出る。
袋から徐ろに勃鬼ドリンクを取り出す。
喉も乾いていたし、飲んじゃえ。
と、思ったのである。馬鹿である。
蓋を開け、一気に飲み干す。
ふぅ...
味はよくある栄養ドリンクとほぼ同じである。美味しくはない。
私は鬱という症状を持ち歩き始めてから、一切の性欲が無くなってしまったのだ。
その事もありこの勃鬼ドリンクを飲んだら性欲が湧いてくるのだろうかという、所謂人体実験紛いのことを思い立ち購入してみたのである。

飲んでから30分経過。

変化なし。
ムラムラ無し。
勃起無し。

それからも下半身にはなんの影響もなく、ただ『栄養ドリンクを飲んだ感じ』が残っただけであった。

非常につまらぬ。

なるほど、私の下半身は男としてのやる気を本気で無くしてしまったようだ。
まぁ、今後の人生で性行為を行う気は無いので全く心配はしていない。男としてのプライドも無い。
気にすることは無い。

勃鬼ドリンク。
ネーミングセンスだけは100点だよ。

 

睡眠。

大人になるにつれて睡眠というものが不自由に感じられるようになった。
満足のいく睡眠、つまり快眠が見失われつつある。
というか、既に見失っている。
以前、酒を飲みながら友達と睡眠について話したことがある。
『今まで貯めてきた快眠の絶対量、その睡眠の貯金を切り崩しながらやっと寝ている様な感覚なんだよね。眠剤やお酒の力を借りて毎日、寝付くことに必死。満足に寝ることは二の次、みたいな。』
という事を友人に話したら頭をヘドバンのようにさせてわかるわかるという共感を得たのだ。
やはり、私と同じく友人も満足のいく睡眠が出来ていないようであった。
何故だろうな。
昔のように惰眠を貪りたい...
そこで、友人に勧められたのが『アロマキャンドル』である。
友人は寝付けない時にアロマキャンドルをつけて寝ているらしい。

「部屋にいい香りが漂って心が落ち着くんだよね、試してみたら?」と言うのだ。

気分の問題じゃないの。お酒の方が効くでしょ。
と思いながらも、先日アロマキャンドルを購入し試してみたのである。
この手のオシャンティーな物は普段から一切手をつけたことがないので現物を見たのもその時が初めてであった。

開封、実践開始。

アロマキャンドルに火をつける。

部屋の電気を消す。

ふむふむ。
これがアロマキャンドルか。

ふむふむ。

いい匂い。

ほーん。

しかし、、

落ち着くか?これ。

.........。

落ち着かないよ!

落ち着かない!

無理!

危ない!怖い!


私の性格上、アロマキャンドルは無理だということがモノの数分で理解出来た。

私は重度の心配症なのでアロマキャンドルの火が気になり過ぎて安心と癒しと睡眠どころでは無かったのだ。

アロマキャンドルの火を消した。
そして、その夜、私は酒と眠剤を飲んで、いつもの眠りに入ったのであった。

快眠は、難しい。

 

傘 その2。

仕事からの帰宅中、小雨が降っていた。
いや、小雨と言えば大げさに聞こえるような極わずかな、降っているのか降っていないのかわからないほどの小雨だったのであるが、しかしその極わずかな小雨にたいしてもやはり居たのである、傘を差している人が。
私はその傘を差している人を見て目眩がした。
くらくら~。
「この小雨でも差すか」と。
雨に対する免疫が無さすぎるのでは?と、私は問いただしてみたくなる。
「すみません、この小雨でも傘をお差しになるんですか?」と。
雨に対する意識が麻痺しているのは私なのかそれとも傘を差していた彼なのだろうか。
雨に対して神経質になる人と私のように無関心な人の差は激しい。
自分と世間の雨に対する意識のズレ。うーむ。

しかし、それを超える衝撃が訪れたのはすぐ後のことだった。
目の前からやってきたのだ。

自転車を漕ぎながら片手で傘を指している人、が。

『マジか』と思わず声が零れた。
これは前回の記事で称えた雨だからなんとなく傘を差している論から大きく外れた類の人だ。
もはや意味が分からなかった。
降っているかわからない程度の小雨で自転車を漕ぎながら、さらに傘を差している。危ない。
なんなんだ。雨に対して免疫が無さすぎるだろ、神経質すぎるだろ。雨をそれほど嫌悪しているのか君は。なんなんだ。目眩がする。
傘を片手に持ちながらの自転車の運転は危険だ、しかしその危険を顧みてまで雨に濡れたくないというのか。私には理解できない行動だ。もはや尊敬する。

この手の人は条件反射的に傘を差してしまうのだろうな。。。
もう、そういうことにしておこう。
傘を差すというのは、行動ではなく症状なのだ。
きっとそうだ。

とりあえず、傘を差しての自転車の運転は危ないのでやめて頂きたいな。
傘は思う存分、差していいから。

 

傘。

朝、目覚める。外の音に耳を澄ます。

あー...と思いながら寝ぼけ眼でカーテンの隙間から外を見る。
雨だ。
そうか、雨か。なるほど、と思う。

駅に向かう。傘を差している人が目に付く。
傘を差すほどでもないだろ、小雨じゃん。と心の中でつぶやく。

私は傘を差さない、というか傘を持って家を出ていない。

なぜなら、傘を持つことが面倒くさいからである。

筋金入りの面倒くさがりに拍車が掛かり私の中にある傘を差すレベルの雨というものが年齢と共に底上げされ続け雨の日に傘を差すという文化が私の中から消え失せてしまった。

お天気キャスターの言う『明日は突然の雨になる。傘を持ったほうがいい。』くらいでは傘を差さないのだ。
私が傘を差すのは『土砂降り』『バケツをひっくり返したような雨』 『台風』の時だけである。

傘の拘束感。手に傘の柄を持つというのが、本当に嫌い。

というか、傘を差しても濡れるときは濡れるじゃないか。という開き直りの部分が強い。

雨が降る、傘を差す、だが、下半身は濡れるのが確定、傘の角度次第では肩も濡れる。
ほら、結局濡れるのだよ。


傘の雨に対する防護範囲というのは非常に狭い。

傘というのはどこを雨から守ることが出来たら傘として成り立つのか。
そもそも、人は何故傘を差すのか。
答えは簡単。
『雨だから何となく傘を差している』に相違ない。
それと、日本人特有のマジョリティーに属していないと不安になる病がこの雨の日に傘を差すという文化を作っているのだ。
『周りの人は傘を差している、私も傘を差さないとおかしい、恥ずかしい』と考える人が多い故なのだ。

しかし、傘というのは進化しないな。

手に持つタイプの傘が旧式になる時代は来るのだろうか。

 

その時代が来たら私も傘を差すだろう。

 

だれか、傘に21世紀感を。