傘。

朝、目覚める。外の音に耳を澄ます。

あー...と思いながら寝ぼけ眼でカーテンの隙間から外を見る。
雨だ。
そうか、雨か。なるほど、と思う。

駅に向かう。傘を差している人が目に付く。
傘を差すほどでもないだろ、小雨じゃん。と心の中でつぶやく。

私は傘を差さない、というか傘を持って家を出ていない。

なぜなら、傘を持つことが面倒くさいからである。

筋金入りの面倒くさがりに拍車が掛かり私の中にある傘を差すレベルの雨というものが年齢と共に底上げされ続け雨の日に傘を差すという文化が私の中から消え失せてしまった。

お天気キャスターの言う『明日は突然の雨になる。傘を持ったほうがいい。』くらいでは傘を差さないのだ。
私が傘を差すのは『土砂降り』『バケツをひっくり返したような雨』 『台風』の時だけである。

傘の拘束感。手に傘の柄を持つというのが、本当に嫌い。

というか、傘を差しても濡れるときは濡れるじゃないか。という開き直りの部分が強い。

雨が降る、傘を差す、だが、下半身は濡れるのが確定、傘の角度次第では肩も濡れる。
ほら、結局濡れるのだよ。


傘の雨に対する防護範囲というのは非常に狭い。

傘というのはどこを雨から守ることが出来たら傘として成り立つのか。
そもそも、人は何故傘を差すのか。
答えは簡単。
『雨だから何となく傘を差している』に相違ない。
それと、日本人特有のマジョリティーに属していないと不安になる病がこの雨の日に傘を差すという文化を作っているのだ。
『周りの人は傘を差している、私も傘を差さないとおかしい、恥ずかしい』と考える人が多い故なのだ。

しかし、傘というのは進化しないな。

手に持つタイプの傘が旧式になる時代は来るのだろうか。

 

その時代が来たら私も傘を差すだろう。

 

だれか、傘に21世紀感を。

 

 

ワイヤレス 2

身のまわりには案外ワイヤレスがあるものだなと気付く。

 

掃除機。これもワイヤレスだ。コードが無いハンディタイプだ。

 

電話機。これもワイヤレスだ。一昔はくるくる巻きのコードが付いていたのに。

 

パソコンのマウスやマイク。その他、なんやかんや。

 

あらゆる電子機器は徐々にワイヤレスになりつつある。

 

ワイヤレスのイメージを飛躍させてみる。

 

ワイヤレス電線。
うーん、ほんのりとした近未来感。

 

ワイヤレス綱引き。
勝敗がつかないだろう。大変だ。

 

ワイヤレスプロレスリング。
アクロバティックな技が出来なくなるだろう。空中殺法が只の殺法になってしまう。

 

ワイヤレスロープウェイ。
空飛ぶ椅子であろうか。乗ってみたい。

 

ワイヤレスバンジージャンプ
娯楽性を含んだ自殺。ギャップが凄まじい。
いろんな意味で怖い。

 

 

ワイヤレス

「まさにワイヤレスじゃないか...」
天を仰ぎ思わず店内で唸り声を上げてしまった。
それと同時に時代の流れに一歩、いや、何十歩と追いつけていない自分に気が付く。
電器屋さんでワイヤレスイヤホンという物を視聴してみたのである。
視聴というべきか、体感というべきか、あるべき所にあるはずのコードが無い、まさにワイヤレスなるものを身をもって経験したのである。
それの心地良さ、快適さに感極まり即買いした程である。

買ったその翌日から早速使い始めた私。


通勤中の音楽が一味違うものに感じられた。
気持ちが良い。だってワイヤレスだもの。


コードが絡まる心配がない。だってワイヤレスだもの。


コードがどこぞの女子高生のカバンのキーホルダーに引っかかる心配もない。だってワイヤレスだもの。

 

気持ちが良い、非常に。

 

サラリーマン。耳にはイヤホン。非ワイヤレスである。

女子高生。耳にはイヤホン。非ワイヤレスである。

 

ふふっ、私はワイヤレスだぞ。

 

私の中に訪れたワイヤレス革命。

 

気持ちが良い。だってワイヤレスだもの。

 

 

文房具屋童貞。

仕事が終わり立ち寄った文房具屋。

とくに何かを買う予定はない。 

しかし立ち寄る度見てしまう物がある。

『試し書きコーナー』である。

ペンの試し書き。

文房具屋の小さなアトラクション。

紙に書かれた個性的な文字や絵。

私は同じ筆跡が見当たらない試し書きコーナーを見るのが好きなんである。

いつもはその試し書きコーナーをふむふむと眺めて店を出る。

しかし今日の私は違う。 

人生初の試し書きを試みた。

0.5mmの油性ペンを手に取る。

キャップを抜き。

よし、と気合いを入れる。 

試し書き童貞喪失の瞬間。

 

あぁ...あぁ...

 

手が震える。

 

私の持病である『意味わからんところで緊張する症』の症状が現れ始めた。

 

ペンを持つ手の手首を左手で抑える。

落ち着け、落ち着け。

自分に言い聞かせる。

 

書けた。

 

『君は誰?』

 

試し書き童貞喪失。

大きく息を吐く。

 

息を殺して書いたそれを見る。

 

ニヤッとする。

 

楽しい。

 

るんるん気分で店を出る。

 

 

 

幸せの距離。幸せの単位。

最近、幸せについて云々考えることがある。
というのも、幸せとはなんぞやという質問をここ最近良くされるのである。
幸せなぁ、目に見えるモノでもないしなぁ、あんのかよそんなもん、知らねぇよ自分で考えなよ。
と言いたくなるだがそういう訳にもいかない。
幸せなんて千差万別で『君の幸せは?』と問われて回答しても君の幸せはその程度なのか?私の幸せはこんなに偉大なのだよ。と笑われそうになるのが私なりの幸せの定義であるのだけど、やっぱり幸せってのは各々違うわけですよ。
私に幸せについて質問してくる人は大抵、恋人関係を中心にした幸せの在り方について悩んでいるパターンが多い気がする。
人の好意を無駄にしてしまう、好意を無視する、愛情を返してやれない、好きな人が恋人になってしまうと退屈、常に刺激が欲しい、恋人が居てもほかの人を追いかけてしまう、そんなだから私は幸せになれない。
というのだ。なるほどなぁ、わかるけどなぁその気持ち。
実際、気にすることないんじゃないかなとは思いますけどね。
好きな人(仮)を一人に留める事が難しい人は別に一人に絞ろうとせず恋の矢印を多方面に分散させて中和するのがいいと思うんだよね。よくある喩えを出すなら、いろんな人に好意を振る舞いてジェットコースターの絶頂(幸せを感じる瞬間)を短いスパンで繰り返す恋愛をすればいいと思う。 それが彼女たちの恋愛の仕方で幸せに近づくステップなのだから、否定はしないよね、出来るわけがない。そしてここで重要なのは恋人になるようなマネはしない事だよね、だってそのジェットコースターの運転に支障が出るからね。

そんな話はさておき、私の幸せはどうなんだと言う話だ。
私の幸せは、こう、恋人、ましてや対人関係で発生するものでは無いのですよ。
ハッキリいうと恋人なんかに幸せを望んでいないんですよね。恋人との交際で幸せを作ろうだなんて私は人生で一度も思ったことがないのである。上記の彼女たちの幸せとはまた少し在り方が違うのである。
恋人に信用や期待、幸せを望むのは自分の中ではなにか違うんですよね、違うというのもまた違う気がするのだけれどもね。(今までの人生が色々と裏切りの連続だったものでこうも歪み腐った性格になってしまったわけです。)

実際のところ自分にとっての幸せがなんなのか全くわからない。
瞬間的な幸せはわかるし感じることはある。友達と飲みに行った時、喫茶店で寛いでいる時、好きなバンドが新しい曲を発表した時、幸せを感じる。
でもこれは一時的なもので幸せを感じるには感じるが高速で幸せと擦れ違ってるだけな気がするんだよね。幸せの純度が高いが余韻は短い。幸せの基準が凄く低いとは思っている、いや、むしろ逆なのか?幸せの理想が高いから満足しないのだろうか。うーむ、幸せが迷子だ。
ただ、私も幸せ(仮)になるための目標というのを一つ定めている。
それは、今この現状から逃げる事だ。
この退屈な日々、ストレスを感じる環境、そこから逃げること。
逃げて、一人になってどっか知らん土地で私のことを知ってる人なんて居ない環境で、自分の丈にあった仕事をして生活出来る最低限の収入を貰い、落ち着いた喫茶店で一人ぼーっとしたい。
それが私の幸せの在り方だと思う。
私の幸せはどうですか?これを読んでるあなたにとって私の幸せはくだらないですか、基準が低いですか、純度がないですか。
でもね、これが私なりの幸せだと思うんだよなぁ。

幸せに近付く為に準備はゆっくりとだがしているつもりではある。先日、相談窓口へ足を運んだくらいなのだ。しかし先立つモノが必要なのだよね~。
幸せにはお金が掛かるなといつも思う。苦しい現実。私の貯金通帳は常にリアリティで溢れている。幸せの単位が『円』だったら悲しいなとそんな事を思いながら通帳でATMにビンタをしたりするのである。
幸せまでの道のり、険しそうですね。
幸せまでが遠い。

逃げたい。逃げてやる。いや、マジで逃げるから。

 

安心は水槽の中。

仕事を終え、いつものように喫茶店へ向かう途中街の異変に気付く。やたらと浴衣姿の女の子が多い。あぁ、なるほど、と思う。祭りだ。忌々しい祭りの季節が来たのだ。
浴衣姿のカップルと仕事終わりの私。この温度差。非常に辛い。

そんなことはさておき、祭りで思い出した事がある。
これを読んでいるのあなたは金魚すくいとやらをしたことがあるだろうか。多分誰でも一度は経験したことがあると思う。私も一度だけある。
私は金魚すくいが苦手。いや、怖いと言った方が合っているのかもしれない。見るのは良い。でもそれをしたくないのである。
幼い頃、爺さんに連れられて行った田舎の祭りで『ひよこすくい』なるのもを見たことがある。(今は全く見なくなったし私もひよこすくいを見たのはそれが最初で最後だった)
大きな四角い箱の中で動き回る大量のひよこ達、それを見てはしゃぐ同い年くらいの子供たち。それを見て私は瞬間的に『こわい』と思った。ひよこは可愛い、それはわかる。でも大量に居るとこわい。幼いながらに量の多さとそれにはしゃぐ子供、それを見て瞬間的にこわいと感じた。
爺さんに「ひよこいるか?」と聞かれて私は即答で「いらない」と答えたのを覚えている。
金魚すくいの何が苦手か今ならハッキリと言える。命をぞんざいに扱うこと、娯楽として命を扱っていること、そして何より私がその小さな命の世話をし、その生き物を幸せにしてやる自信の無さからくる恐ろしさ。考え過ぎかも知れないが、倫理的にどうなの?とも思ってしまう。でも否定はしない、商売だものね。

そんな私も一度だけ金魚すくいをしたことがあるわけです。たった一度だけ。小学六年生の時、仲の良かった女の子とお祭りに行った時である。高橋という子だった。

祭り会場の待ち合わせ場所で合流して屋台を見て回った。

浴衣姿の高橋が金魚すくいの屋台を見つけて駆け出したのでドキッとした。まさかと思った。
「ふみ、金魚すくいしよう」
満面の笑みで言われてしまった。

金魚すくい、しよう。

あの時、したくないと言えばよかった気もしなくは無い。今の私なら即答で断って居るが当時の私は高橋にノリが悪いと思われるのが嫌だったのだろう、私は頑張って金魚すくいを高橋と一緒に行うことにした。はしゃぐ高橋、その隣で笑顔を作る私。
私はもちろんすくう事はしなかった。自然に見えるように、私は紙に穴が開ようにわざと勢いよく金魚をすくった。綺麗に紙に穴が空いた。ホッとする。良かった、金魚の世話なんてしたくない、小さな金魚だが命は命だ、私に扱うことなんて無理なんだ。ごめんな高橋、私は金魚すくいしたくないんだ。そんな事を思いながら穴のあいたすくう道具を屋台のおじさんに手渡した。
その時おじさんは私に向かって言った
「残念だったね二ィちゃん。おまけで3匹金魚やるよ!!」
私は凍りついた。
要らない、要らない、要らない、こわい。
おじさんの優しさが私には鋭利な刃物だった。おじさんは3匹の綺麗な金魚の入った袋を手渡してくれた。頭の中が真っ白になった。どうしよう金魚、私みたいな人間にこの子のお世話は出来ない、どうしよう。それで頭がいっぱいだった。そんな私の横ではしゃぐ高橋。どうやら高橋もダメだったらしくおじさんに金魚をおまけして貰ったようだった。
その後、二人で花火を観た。
祭りのフィナーレを飾る花火の最中『どうしよう、金魚、飼うか?なけなしの貯金を全て出して大きな水槽買うか?どうする、川に逃がすか?どうする。どうしよう。』と永遠と考えていた。そんな事を考えながら観る花火はちっとも綺麗には見えなかった。
祭りが終わり、高橋と別れる時間がやってきた。
私は高橋に思い切って切り出した。(高橋の家には立派な水槽があり熱帯魚や色んな観賞魚を飼っているのを知っていたので私は金魚達を託すことにした)
ふ『高橋、金魚あげる。』
高『なんで?』
ふ『ほら、金魚もお友達が多い方が幸せじゃない?あげるよ。』
高『やった!ありがと!』
なにが、金魚もお友達が多い方が幸せじゃない?だ。都合のいいセリフで美談にしたてあげた狡い人間なだけじゃないか。それでもやはり小さな命と向き合う事が私には恐ろしく苦痛だった。
高橋は喜んで受けってくれたが私の心持ちは晴れなかった。
高橋と別れた後の帰り道は罪悪感に襲われて酷いものだった。

夏が終わり秋を迎えた頃高橋の家に遊びに行くことがあった。
『お邪魔します』
リビングに通された。久しぶりの高橋の家、相変わらず沢山の観賞魚が水槽で泳いでいる。
私はその子達をボーッと眺めていた、そして思い出した。あ、夏祭りの時の金魚、どうしたんだろう。私は高橋に金魚があの後どうなったのか聞くか暫く迷っていた。
すると高橋は私に言った
「ふみ、こっち来て」
導かれて高橋の部屋へ向かった。机の横に小さな水槽が置いてあった。
「これ、ふみがくれた金魚だよ。」
水槽の中には綺麗な金魚達が居た。私は水槽の中で幸せそうに泳ぐ金魚を食い入るように観た。私が押し付けた金魚達を高橋は大切に育ててくれていたようだった。良かった、良かった、高橋ありがとう。私は心の中で何度も感謝した。

 

あれから何年も経ったが未だに私は金魚すくいが苦手である。
私が高橋に押し付けた金魚、もう流石に生きて無いだろうな。
今頃天の川でも泳いで居るのだろうか。