文房具屋童貞。

仕事が終わり立ち寄った文房具屋。

とくに何かを買う予定はない。 

しかし立ち寄る度見てしまう物がある。

『試し書きコーナー』である。

ペンの試し書き。

文房具屋の小さなアトラクション。

紙に書かれた個性的な文字や絵。

私は同じ筆跡が見当たらない試し書きコーナーを見るのが好きなんである。

いつもはその試し書きコーナーをふむふむと眺めて店を出る。

しかし今日の私は違う。 

人生初の試し書きを試みた。

0.5mmの油性ペンを手に取る。

キャップを抜き。

よし、と気合いを入れる。 

試し書き童貞喪失の瞬間。

 

あぁ...あぁ...

 

手が震える。

 

私の持病である『意味わからんところで緊張する症』の症状が現れ始めた。

 

ペンを持つ手の手首を左手で抑える。

落ち着け、落ち着け。

自分に言い聞かせる。

 

書けた。

 

『君は誰?』

 

試し書き童貞喪失。

大きく息を吐く。

 

息を殺して書いたそれを見る。

 

ニヤッとする。

 

楽しい。

 

るんるん気分で店を出る。

 

 

 

幸せの距離。幸せの単位。

最近、幸せについて云々考えることがある。
というのも、幸せとはなんぞやという質問をここ最近良くされるのである。
幸せなぁ、目に見えるモノでもないしなぁ、あんのかよそんなもん、知らねぇよ自分で考えなよ。
と言いたくなるだがそういう訳にもいかない。
幸せなんて千差万別で『君の幸せは?』と問われて回答しても君の幸せはその程度なのか?私の幸せはこんなに偉大なのだよ。と笑われそうになるのが私なりの幸せの定義であるのだけど、やっぱり幸せってのは各々違うわけですよ。
私に幸せについて質問してくる人は大抵、恋人関係を中心にした幸せの在り方について悩んでいるパターンが多い気がする。
人の好意を無駄にしてしまう、好意を無視する、愛情を返してやれない、好きな人が恋人になってしまうと退屈、常に刺激が欲しい、恋人が居てもほかの人を追いかけてしまう、そんなだから私は幸せになれない。
というのだ。なるほどなぁ、わかるけどなぁその気持ち。
実際、気にすることないんじゃないかなとは思いますけどね。
好きな人(仮)を一人に留める事が難しい人は別に一人に絞ろうとせず恋の矢印を多方面に分散させて中和するのがいいと思うんだよね。よくある喩えを出すなら、いろんな人に好意を振る舞いてジェットコースターの絶頂(幸せを感じる瞬間)を短いスパンで繰り返す恋愛をすればいいと思う。 それが彼女たちの恋愛の仕方で幸せに近づくステップなのだから、否定はしないよね、出来るわけがない。そしてここで重要なのは恋人になるようなマネはしない事だよね、だってそのジェットコースターの運転に支障が出るからね。

そんな話はさておき、私の幸せはどうなんだと言う話だ。
私の幸せは、こう、恋人、ましてや対人関係で発生するものでは無いのですよ。
ハッキリいうと恋人なんかに幸せを望んでいないんですよね。恋人との交際で幸せを作ろうだなんて私は人生で一度も思ったことがないのである。上記の彼女たちの幸せとはまた少し在り方が違うのである。
恋人に信用や期待、幸せを望むのは自分の中ではなにか違うんですよね、違うというのもまた違う気がするのだけれどもね。(今までの人生が色々と裏切りの連続だったものでこうも歪み腐った性格になってしまったわけです。)

実際のところ自分にとっての幸せがなんなのか全くわからない。
瞬間的な幸せはわかるし感じることはある。友達と飲みに行った時、喫茶店で寛いでいる時、好きなバンドが新しい曲を発表した時、幸せを感じる。
でもこれは一時的なもので幸せを感じるには感じるが高速で幸せと擦れ違ってるだけな気がするんだよね。幸せの純度が高いが余韻は短い。幸せの基準が凄く低いとは思っている、いや、むしろ逆なのか?幸せの理想が高いから満足しないのだろうか。うーむ、幸せが迷子だ。
ただ、私も幸せ(仮)になるための目標というのを一つ定めている。
それは、今この現状から逃げる事だ。
この退屈な日々、ストレスを感じる環境、そこから逃げること。
逃げて、一人になってどっか知らん土地で私のことを知ってる人なんて居ない環境で、自分の丈にあった仕事をして生活出来る最低限の収入を貰い、落ち着いた喫茶店で一人ぼーっとしたい。
それが私の幸せの在り方だと思う。
私の幸せはどうですか?これを読んでるあなたにとって私の幸せはくだらないですか、基準が低いですか、純度がないですか。
でもね、これが私なりの幸せだと思うんだよなぁ。

幸せに近付く為に準備はゆっくりとだがしているつもりではある。先日、相談窓口へ足を運んだくらいなのだ。しかし先立つモノが必要なのだよね~。
幸せにはお金が掛かるなといつも思う。苦しい現実。私の貯金通帳は常にリアリティで溢れている。幸せの単位が『円』だったら悲しいなとそんな事を思いながら通帳でATMにビンタをしたりするのである。
幸せまでの道のり、険しそうですね。
幸せまでが遠い。

逃げたい。逃げてやる。いや、マジで逃げるから。

 

安心は水槽の中。

仕事を終え、いつものように喫茶店へ向かう途中街の異変に気付く。やたらと浴衣姿の女の子が多い。あぁ、なるほど、と思う。祭りだ。忌々しい祭りの季節が来たのだ。
浴衣姿のカップルと仕事終わりの私。この温度差。非常に辛い。

そんなことはさておき、祭りで思い出した事がある。
これを読んでいるのあなたは金魚すくいとやらをしたことがあるだろうか。多分誰でも一度は経験したことがあると思う。私も一度だけある。
私は金魚すくいが苦手。いや、怖いと言った方が合っているのかもしれない。見るのは良い。でもそれをしたくないのである。
幼い頃、爺さんに連れられて行った田舎の祭りで『ひよこすくい』なるのもを見たことがある。(今は全く見なくなったし私もひよこすくいを見たのはそれが最初で最後だった)
大きな四角い箱の中で動き回る大量のひよこ達、それを見てはしゃぐ同い年くらいの子供たち。それを見て私は瞬間的に『こわい』と思った。ひよこは可愛い、それはわかる。でも大量に居るとこわい。幼いながらに量の多さとそれにはしゃぐ子供、それを見て瞬間的にこわいと感じた。
爺さんに「ひよこいるか?」と聞かれて私は即答で「いらない」と答えたのを覚えている。
金魚すくいの何が苦手か今ならハッキリと言える。命をぞんざいに扱うこと、娯楽として命を扱っていること、そして何より私がその小さな命の世話をし、その生き物を幸せにしてやる自信の無さからくる恐ろしさ。考え過ぎかも知れないが、倫理的にどうなの?とも思ってしまう。でも否定はしない、商売だものね。

そんな私も一度だけ金魚すくいをしたことがあるわけです。たった一度だけ。小学六年生の時、仲の良かった女の子とお祭りに行った時である。高橋という子だった。

祭り会場の待ち合わせ場所で合流して屋台を見て回った。

浴衣姿の高橋が金魚すくいの屋台を見つけて駆け出したのでドキッとした。まさかと思った。
「ふみ、金魚すくいしよう」
満面の笑みで言われてしまった。

金魚すくい、しよう。

あの時、したくないと言えばよかった気もしなくは無い。今の私なら即答で断って居るが当時の私は高橋にノリが悪いと思われるのが嫌だったのだろう、私は頑張って金魚すくいを高橋と一緒に行うことにした。はしゃぐ高橋、その隣で笑顔を作る私。
私はもちろんすくう事はしなかった。自然に見えるように、私は紙に穴が開ようにわざと勢いよく金魚をすくった。綺麗に紙に穴が空いた。ホッとする。良かった、金魚の世話なんてしたくない、小さな金魚だが命は命だ、私に扱うことなんて無理なんだ。ごめんな高橋、私は金魚すくいしたくないんだ。そんな事を思いながら穴のあいたすくう道具を屋台のおじさんに手渡した。
その時おじさんは私に向かって言った
「残念だったね二ィちゃん。おまけで3匹金魚やるよ!!」
私は凍りついた。
要らない、要らない、要らない、こわい。
おじさんの優しさが私には鋭利な刃物だった。おじさんは3匹の綺麗な金魚の入った袋を手渡してくれた。頭の中が真っ白になった。どうしよう金魚、私みたいな人間にこの子のお世話は出来ない、どうしよう。それで頭がいっぱいだった。そんな私の横ではしゃぐ高橋。どうやら高橋もダメだったらしくおじさんに金魚をおまけして貰ったようだった。
その後、二人で花火を観た。
祭りのフィナーレを飾る花火の最中『どうしよう、金魚、飼うか?なけなしの貯金を全て出して大きな水槽買うか?どうする、川に逃がすか?どうする。どうしよう。』と永遠と考えていた。そんな事を考えながら観る花火はちっとも綺麗には見えなかった。
祭りが終わり、高橋と別れる時間がやってきた。
私は高橋に思い切って切り出した。(高橋の家には立派な水槽があり熱帯魚や色んな観賞魚を飼っているのを知っていたので私は金魚達を託すことにした)
ふ『高橋、金魚あげる。』
高『なんで?』
ふ『ほら、金魚もお友達が多い方が幸せじゃない?あげるよ。』
高『やった!ありがと!』
なにが、金魚もお友達が多い方が幸せじゃない?だ。都合のいいセリフで美談にしたてあげた狡い人間なだけじゃないか。それでもやはり小さな命と向き合う事が私には恐ろしく苦痛だった。
高橋は喜んで受けってくれたが私の心持ちは晴れなかった。
高橋と別れた後の帰り道は罪悪感に襲われて酷いものだった。

夏が終わり秋を迎えた頃高橋の家に遊びに行くことがあった。
『お邪魔します』
リビングに通された。久しぶりの高橋の家、相変わらず沢山の観賞魚が水槽で泳いでいる。
私はその子達をボーッと眺めていた、そして思い出した。あ、夏祭りの時の金魚、どうしたんだろう。私は高橋に金魚があの後どうなったのか聞くか暫く迷っていた。
すると高橋は私に言った
「ふみ、こっち来て」
導かれて高橋の部屋へ向かった。机の横に小さな水槽が置いてあった。
「これ、ふみがくれた金魚だよ。」
水槽の中には綺麗な金魚達が居た。私は水槽の中で幸せそうに泳ぐ金魚を食い入るように観た。私が押し付けた金魚達を高橋は大切に育ててくれていたようだった。良かった、良かった、高橋ありがとう。私は心の中で何度も感謝した。

 

あれから何年も経ったが未だに私は金魚すくいが苦手である。
私が高橋に押し付けた金魚、もう流石に生きて無いだろうな。
今頃天の川でも泳いで居るのだろうか。

 

吾輩はメンヘラである。

職場に当たり前のように来るのである。なにが?そう、『彼』が。
彼というのは野良猫。
彼を知ったのは、というか、意識をし始めたのはここ数ヶ月の事である。
仕事を始めた初期から職場の敷地内に猫が住み着いているのは知っていた。しかし触れる様な距離で彼を見ることは無かった。
そんなある日の朝彼は突然やってきた。職場の玄関で寝ていたのである。もちろん初めて見た時は「嘘だろ」 と思った。
嘘だろ、と思ったがそれもおかしな事なんじゃないかと言う気もした。何故かというと職場は基本的に朝7時から玄関が常に開きっぱなしなので誰でも出入り出来る環境に常にあったのだ。なので、寧ろ今まで彼、または別の野良ちゃんが入って来てもおかしくは無かったのだ。
彼はその日から当たり前のように職場の玄関に来るようになった。ほぼ毎日玄関で寝ているのだ。寝て、起きて、どこかにふらっと消えていく彼だったのだ。

しかし彼にも、彼にもというか、猫にも『慣れ』というのがある事が判明した。いや、慣れを与えてしまった人間が居るのだ。

見知らぬうちに彼は昼の12時頃になると玄関の定位置にどこからともなく現れ、甘えるように鳴くようになった。(必ず12時頃にやって来るのである。猫の体内時計の正確さに感心する)
私はその彼の姿をお昼ご飯を食べながら不思議だな、なんでお昼になると来るのかな、血液型何型かな、ご両親はどこに居るのかな、可愛いな、などと思いながらただ眺めるのであった。

気になる、気になりすぎる。何故彼が昼間に必ずやって来るのかが気になる。私は昼ご飯を早めに食べ終えて彼の観察をしてみることにした。

勿論翌日も彼は来た。来たなお主、今日は君のその猫なで声の原因を探ってやるからな、待ってろ、今お昼ご飯を食べ終えてやるからな。
お昼ご飯を終え、自販機で珈琲を買いに行くついでに職場の玄関付近で彼の謎行動を見守ることにした。
鳴いている。まだ鳴いている。おや?と思う。
彼の隣には部長が居た。マジか、あんたか、と思った。部長は彼に餌付けをしていたのである。
そりゃ来るわ、餌求めてくるわ、犯人あんたか、彼の見事な猫なで声はあんたに向けられていたのか、と私は珈琲を飲みつつ白目を向きながら思ったのである。
部長が彼に与えた『慣れ』は非常に罪深い。餌が貰える事を覚えさせた事、そして何より猫好きな私にとって非常に罪深いのである。
彼の慣れはエスカレートにエスカレートを重ねエスカレートしきって、玄関だけに留まらず、遂に職場内をウロチョロするようになり、時には社員の作業机の椅子の上で寝るようになった。
堪らんのである、可愛いのである。
彼の遊び場と化した職場で働く私には非常に辛いものがある。あぁ可愛い、一緒に遊びたい、猫になりたい、部長、お前が彼に与えた慣れの罪は重いぞこの野郎、と猫まっしぐらな気持ちを抑えつつ彼を横目に仕事に取り組む日々。
そんな満ち溢れたフラストレーションを発散出来る瞬間が時々ある。
一日中職場に彼は居るので勿論昼休みも居る。
時々目が合う、可愛いと思う。手招きをする、こっちに向かってくる、可愛い!と思う。そこから始まるじゃれ合いタイム。最高に幸せな時間なのである。殺伐とした職場に訪れた至福のひととき。砂漠の中のオアシス、真冬に咲き誇る向日葵か。そう思える時間なのである。

つい先日、彼は玄関に座り込み天井を眺めていた。彼は私の方を見た、目が合った。そして彼は外へ駆け出して行った。夕方頃だった。ふと、『美しい』と思った。
彼は野良猫なので誰に飼われている訳でもない、手入れされるわけでもないので白い彼の毛は薄汚れている。顔に怪我もしている。でも美しいと思った。
職場の中で遊び回って、外へ出掛けていくのはいつもの事なのだけれど、なぜかその時は彼が美しいと思った。野良猫は飼い猫と根本的に生き方が違う。彼は生きる力に満ち溢れている気がした。時に誰かに媚び、時には誰にも媚びる事もなく自由に生きている、白黒ハッキリした世界で自由に生きる彼は非常にかっこいい。私も彼を見習いたい。かっこよく一人で生きてみたい。そう思った。

そうは言っても所詮は猫なのだ。
どんなに白黒ハッキリしていても手招きをすれば目を輝かせて遊んでくれよと尻尾を振ってやって来るし、頭を撫でてやれば気持ちよさそうな顔をするし、紐をチラつかせれば猫パンチをしてじゃれてくるのだ。可愛くチョロい猫なのだ。

昼休み、いつものように彼とじゃれて居て気が付いた。
彼には名前がない。チョロい彼には名前が無い。
そう思った三秒後に私の中で彼の名前は決まった。
『メンヘラ君』

夏目漱石もびっくりである。

そんな彼は明日も玄関にいる。

 

お会計。レジ前、小銭ストレス。

この財布を使いはじめて何年経っただろうか。そしてこの財布に嫌気がさしてどれ程の時間が経過しただろうか。財布を何度買い換えようと思っただろうか。
私の財布は非常に扱いづらい。100人居たら100人が口を揃えて「これは酷い」と言うだろう。それほど機能性が最悪なのである。閉まるところは閉まらず、開くべきところが開いてないのである。カードの類いを収納するポケットはカードとの密着率が異常に高くでレジの店員さんに「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれてからでは遅いくらいに取り出しづらいのである。
そして問題は小銭を収納するスペース。これが厄介であり私のストレスの元凶、悪の権化そのものなのである。
なんと言っても狭い、非常に狭い。小銭入れを開き指をそこに入れる、するとどうだ、狭すぎる、指先さえも窮屈。小銭は取り出せる、しかし取り出せるだけであって『狙った小銭』は取り出せないのである。小銭入れ内でバタつく人差し指と親指、逃げる小銭。もたつく会計。

1円玉を出したいのに50円玉を取り出したり、100円玉を取り出したいのに10円玉を取り出したりは日常茶飯事。私が希望する額の小銭達を私の指はこの狭き小銭収納スペースのおかげでスタイリッシュに取れた試しがないのである。(取り出せるには取り出せるがスタイリッシュではないのだ)
その中でも厄介な小銭は1円玉、5円玉、10円玉たちである。

そこで私が考案したこの問題の打開策。
外出時には事前に小銭をポケットに常に忍ばせるというものだ。
パンツの右ポケットには1円玉数枚、左ポケットには5円玉数枚、胸ポケットには10円玉数枚を入れておく、そして会計の金額がレジの液晶画面に表示された瞬間ポケットをまさぐり、端数額を叩き出すのだ。
これがなかなか使える。非常に便利である。
しかしこの策には欠点がある。
ポケットを全力でまさぐる姿が素晴らしくみっともないのである。

いつもコンビニで買う缶コーヒーは123円。事前に買う物の値段が把握出来ている場合などはコンビニに入る前に財布、ポケットからゆったりと小銭を出してスタイリッシュにお会計を済ませる事が出来るのだが、2品、3品、購入したりする場合は全力でみっともない姿を晒さなければならない。
私はもう、慣れた。慣れてしまったのだ、ポケットをまさぐり尽くすみっともない姿を晒すのには。

しかしこの策は根本的な問題の解決にはなっていない。
私は『レジでどんな額が表示されようとも涼しい顔をしてスタイリッシュにお会計を済ませる事』が目的なわけであってポケットをまさぐることが目的なのではない。
私の目的はスタイリッシュに会計を済ませる。
この一点なのだ。

これをお読みになっている方々は『こいつ何言ってんだかアホか、財布買い換えろや』と御思いだろう。

全く以てその通りなのである。

カードも小銭も取り出しづらい、もはや財布として見ていいのかすらわからない財布を長年使う意味はあるのだろうか?
全くない。
問題の解決策は財布を買い換えればすぐ解決する、解決はしなくとも今よりかは幾分マシになる。
そう、そうなのだ。

この財布は確か1000円くらいで買った記憶がある。購入した時は機能性など全く気にも止めていなかった。後にこれ程までに苦しめられるとは思いもしなかった。
1000円のこの財布が私に与えた小銭ストレスは1000円以上の価値があると私は思う。
蓄積されたストレスはプライスレスである。

何故、私はこの財布にストレスを感じながらも長年使い続けているのか、謎である。
私にもわからない。愛着がある訳では無い。
ならなにか?『情』なのか?
全く謎だ。

いや、原因は私の習性にあるのかもしれない。
私には幼い頃からある特定のものをひたすら使い続ける習性があるのだ。
中学生の頃履いていたズボンを未だに部屋着として着たり、靴は同じものを穴が空くまで履き、穴が空いたらまた同じ靴を買ったり。
歯磨きをする時に使うコップに関しては幼稚園の頃から使っているマグカップをかれこれ20年程使っている(20年使っているが驚くほど綺麗なのだ)。
どれもこれも特に愛着がある訳でも依存しているわけでもない。ピーナッツ(スヌーピー)でお馴染みのキャラクター、ライナスが病的なまでに常に持ち歩いている『安心毛布』と私のこれらの物に対する感覚は全く別なのである。(しかしライナスの毛布に対する気持ちはわかる)
捨てようと思えば捨てることが出来るものだ。
ほんとに、ほんとに愛着は全くない。でも、捨てる事をしない。
謎の習性である。

恐らくそのあたりの習性が財布にも影響してしまっているのかもしれない。

うーむ、どうするべきか。このまま小銭ストレス全身に浴びながら財布と共に生きていくのか、それとも、素直に買い換えてこの支配から卒業するべきか。
そうだねぇ、買い換えましょうかね。
季節も変わりますし、財布も衣替えしましょうかね。
うむ、そうしよう。

その前に衣類の衣替えをしなければ..

私のタンスの中は未だに冬なのである。

過去、現在、未来の三点倒立。

思い出というのは、今という時間があるからこそ出来るわけで今という時間が過ぎてしまえば全ては過去であり思い出なのではないだろうか。
そんなわけで、黄金週間、GWは東京へ旅行へ行ったのです。
旅先で私のお散歩に付き添ってくれる方をTwitterで集め、とりあえずその人たちにその日1日の予定を自由に決めてもらい一緒に過ごしてもらうという自由といえば自由なのだけれど(相手にとって)迷惑といえば迷惑極まりない他人任せ無計画旅行というのは基本スタンスで、今回の東京旅行も例外では無かったわけである。

いやぁ、癒されましたね。女の子ですもの、出逢ってくれた方々は。
普段、人、ましてや女の子に会う機会もなければ会話もない日常の中でぼんやりと過ごしている私にとって女の子と出会うことは癒し&刺激的なんである。
毎度、誘ってくれる方々は優しく、少なからずどこかしら自分に似ていて、なんとなく私を理解してくれている子達で非常に接しやすく落ち着く存在だったりする。
食事したり、喫茶店で向かい合って話したりするだけなのだけれど私にとって素晴らしく楽しい時間であり大切なひと時。有意義な時間だったのです。

笑顔が好きなんですよ、女の子の笑顔。純粋に、単純に、笑顔が好きなんである。

『笑顔』といっても、なんというか、こう、大きな笑顔というのはつまらなくて、小さな笑顔がまた好きで、笑顔の理由が素朴であればある程いいなぁと思うのです。
今回の旅行中にもその笑顔に沢山出会った。
例えば、どこか旅行へと向かう家族。子供は興奮気味に母親の手を引き電車に乗り込む、もちろん子供は笑顔。こちらまでそのウキウキが伝わってくる、それだけで私は泣けてくるのである。

もちろん、出逢ってくれた女の子も小さな笑顔を沢山私に見せてくれた。
学校生活が大変なこと、友達関係が面倒なこと、自分はどんな人なのかということ、さっきまで何をしていたかということ、私に対し思っていること、好きな食べ物のこと、髪色を変えるということ。何気ない会話の中で彼女達が散りばめた小さな笑顔を私は忘れたくない、大切にしたいと思っている。
これから数え切れない程重なり合っていく記憶の中で彼女達があの時あの場所で私と過ごした一時の事を思い出すことはあるのだろうかと、その、小さな笑顔を眺めながらしきりに思うのである。
私が見た彼女の小さな笑顔は紛うことなき『現在』の出来事であるはずなのに、目の前の彼女の光景は同時に彼女達の過去であって、未来の彼女達が思い出すかも知れない記憶に立ち会っているような、そんな感覚が拭えなかったりする。
忘れたくないね彼女達の笑顔。また会いたいですね。
現在と過去と未来は常に同時進行なのかもね。
あぁ、彼女達の笑顔を思い出すだけで胸が熱く痛くなる。だってもう夏だもの。

Before美しい After綺麗

『季節は巡るねぇ』と声に出してしまった四月。
世間は春らしいが私には春らしい春は全くと言っていいほど訪れていないわけで、冬の延長にある春がただ、勝手にやって来ただけで、別れも無ければ出会いもない今を過ごしている。
テレビやラジオから聞こえてくる『新年度』『新社会人』『入学式』などのワードを聞くと、受け入れたくなくても春という季節感を強制的に身体に叩き込まれる訳で…
しかし、私は『まだ冬ですし?マフラーも手袋もしていますし?春?知らんなそんなもん。』と足掻いている最中だったりする。

いや、事実、春はまだやって来てないんですよ、私の街には。
春らしい春を感じられない最大の要因は桜が未だに開花していないからなんですよ。

社会人になってから、見る機会をまるっきり無くした桜の花。
桜の花に対して、というか、それに関わらず世の中のありとあらゆるモノに纏わる感情に付いて頭を抱えている事が一つありまして。
何かに対して『美しい』という感情が全くと言っていいほど湧かなくなっているのである。
綺麗だなぁと思うことはある、しかし美しいと思うことは無い。
各々、解釈や感じ方はあると思うが、個人的に『綺麗』と『美しい』は違う感情だと思うのです。

ここ数年、桜の花を見て『美しい』と思うことがなくなった。勿論、綺麗だとは思う、でも美しくは無い。

美しく思えないのは何故だろうなぁと暫く頭を悩ませて考えてみた。

美しいと感じた桜の花は1度だけある。
小学校の入学式の時に幼馴染と一緒に見た桜の花だ。
あの桜の花は本当に美しかった、幼ながらにそう思った。今でも鮮明に覚えている。
恐らくあの時、あの瞬間、あの場所で、私は『美しい桜の花』を無くしたんだと思う。
あれ以来桜の花を美しいと思った事は無い。

『美しい』という感情はおさらく、綺麗+特別な状況から生まれるものなんでしょうね。
あの時入学式であった事、大好きな幼馴染と桜を見れたこと、それらが桜の花を美しいと感じさせたんだろうね。

しかし、幼い頃はこう、見るもの全てが高解像だったような気がする。パンフォーカスでシャープネスギチギチって感じ。
全てが美しかった気がするね。
歳を重ねるということは鈍感になっていく事なのかもしれない。
自然の家で観た夜空の星の美しさ。好きだったあの子の泣く顔の美しさ。ホールに響くオーケストラの聴覚的な美しさ。
幼い頃にある程度の『美しい』は消化されてしまったんだろうな。切ないな。

嗚呼、歳をとりたくない。
感性が鈍くなるのは恐ろしい。

改めて桜の花を美しいと思う時は来るのでしょうかね。
これからの人生、美しいを見聞きする時はあるんでしょうかね。
不安になってきた。
無いと困る。有ってくれないと。

あ、桜の花言葉は『純潔』らしいです